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女性の自閉スペクトラムを知る

まだ十代の頃、母と母の友人と一緒に立ち寄った店で、真っ白なワンピースを勧められて試着した。季節は夏で、私はフレンチスリーブのTシャツを着ていた。かなり汗ばんでいたので、白いノースリーブのワンピースに汗染みをつけてしまったらいけないと思い、着ていたTシャツの上からワンピースを着て試着室から出てきた。
母の友人は煙った表情をし、小声で「これは直に着てもいいのよ」と耳打ちするように言った。私は顔から火が出るほど恥ずかしくなり、混乱して口をつぐんだ。

考えてみると、私は混乱することがあるとどう返答していいか全く分からず脳がフリーズするように固まってしまい、何も言い返せず黙り込む。
試着したワンピースの下にTシャツの袖がはみ出していて、不格好だったかもしれない。でも私は私なりの配慮でそのような行動をとったのだし、自分にとっては自然で、自分なりの常識に従ったものだった。

何か問題があったときに「言い訳」はしてはいけないものだという価値観を、周囲をつぶさに観察することから身につけ、頑なに守り続けていて、自分を擁護するような発言はしてはいけないと思いこんでもいた。
混乱が落ち着いたあとに自己弁護したくなったとしてもタイミングも逸しているし、それを自分に禁じてもいるし、二重三重に自分の思いを表現することができなくなった。

黙りこくって混乱をやり過ごしている私の姿は、相手にはどう見えるんだろう。配慮を要求しているように見え、面倒くさい相手に思えるのか。それでも仕方ない。
似たような体験がたくさんあり、いつも私は言い訳もできず瞬間的に自分の世界に籠もる。混乱の中で、起きた事態を検証するにはそうするしかない。それは自分を守るために仕方ないことと諦めるしかないと悟る。
でもたしかに言えるのは、私はそういう私が嫌いではないし、むしろ大好きなんだ。人がどう思おうとも。

咄嗟に外界からの刺激に対応できない。そこにあるべき感情は、しばらくして混乱が沈殿したあとにようやく感じ取れるようになる。後悔だとかくよくよ考えるというのとは本質的に違って、あとになって感情の津波に襲われる感じかもしれない。

その場では外界を処理するのに手一杯になっていて、自分の内側に潜っていけない。外の世界に対応するのと、自分の中を感じるのとは同時にできない。
一般的にはそれを同時にできるのが普通であるということに、ごく最近まで気づかなかった。

自分がASD(自閉スペクトラム症)かもしれないと感じて、自分の特性に納得がいった。まさに目から鱗という感じで。
ASDの診断テストのようなものが溢れていて、たいていは男性のASDを基準にしてそれが作られているということを知らなかった。女性の特性はまたかなり違っていて、男性よりはコミュニケーションが得意で、あからさまな自閉的行動が見られにくいということもあるらしい。極端に大人しく内気な子と思われて終わりだったりする。

今までも自分には自閉傾向があるのではないかと考えることもあった。でも男性対象の診断基準で見てもあまり当てはまらない。だからグレーゾーンなのかもなと思うだけで、それ以上追究しなかった。
女性のASDのことを調べるにつれ、当事者の著作などを読むにつれ、本気で自分も当てはまるのではないかと思えてきた。

今まで閉ざされていた向こうに別の世界が開けていたような感覚。自分の内側深くの、闇の扉にぴったり当てはまる鍵が突然現れたような気持ちで、興奮と動揺が抑えきれなかった。

 

天国を生きる

韓国ドラマ『天国の階段』再見。これが初めて観た韓国のドラマで、その後の沼のきっかけとなった。

交通事故に記憶喪失に不治の病のクサいストーリーだと言ってバカにする人たちとはお友達になりたくない。そういう舞台装置はジェットコースターに必要な落差や弯曲と同じで、いちばん感情の起伏や盛り上がりを作るのに適しているから繰り返されているというのがよく分かるから、全く気にならないし、むしろ安心感がある。

千年前に生まれた人も、一万年後に生きる人も、このストーリーに心動かされるはず。それだけの普遍性。相手が欲しいという強い思いに突き動かされる恋が、どこまでも相手に捧げるという愛に美しく変容していく。

若くして死にゆく運命を受け容れた彼女が、私ほど幸せな人がいるかしら?と呟く。愛されるというのはそういうことだ。

こんなお伽噺チックな愛は現実には存在しないフィクションだと一定の人が思うのかもしれないけれど、私はそんなふうに現実を諦めて生きられるほど器用な大人じゃなくて、打算や駆け引きもまるで理解できずに子供よりひどい有様で、でもそんな自分で良かったと思っている。

現実に接する人々より、ドラマの中の人物のほうが圧倒的に共感を感じられる。人生を圧縮して単純化しているせいもあるし、感情の動きが見えるように作ってあるからだろうけど、実際に接する人々の心の内があまりにも読めなさ過ぎて恐ろしいということの反動もあるのかもしれない。

自分のことで精一杯になってしまい、立ち位置の違う人の心を思いやることがどうしても苦手で、悪気はなくても配慮のない言動を取ってしまいやすいのをよく自覚している。ドラマ内の人物には、自分の目線を重ねて見るから理解できる。けれど、相対する相手として見るとその心が見えなくなりがち。共感力の不足体験を補うように、ドラマや映画などで深く共感する体験を手当たり次第に貪っている。それでやっと心が息をつけるという感じがある。
現実の世の中は退屈で、近視眼的で、色彩がなく、渇いている。そこから羽ばたきたくなる。

永遠の愛を誓いますか?と結婚式でやるけれど、それは誓っちゃだめなのでは。契約という意味に履き違えてしまうから。永遠の約束を守れるかどうか分からなくても、それなしには今を生きられない、その人を想っていなければ自分が自分でなくなってしまう……と感じ続けるのが本物の永遠なんだろうと思う。そこにしか天国はない。
いつかどこかじゃなく、今この瞬間に天国を生きるということを、諦めたくない。

 

銀色のうさぎ

子うさぎを飼っている。白く艶がありシルバーグレイがかって見える毛色。とてもおとなしく、純粋で一片の穢れもないことは瞳を見ればわかる。私はうさぎを連れてブリーダーの家へ行き、一緒に生まれたきょうだい達に会わせようとする。きょうだいは3匹いて、小さな箱の中に入れられていた。私のうさぎを箱の中の隙間にそっと入れる。懐かしい再会となることを期待して。

きょうだいの中の一匹、ベージュ色をした一番小柄なうさぎが、猫がするように前脚を高く振り上げて私のうさぎに向けて振り下ろした。振り上げた前脚には大きな鋭い爪が光った。まるで折りたたみ式のアーミーナイフの刃のように見えた。私のうさぎの背中にナイフはぐさりと突き刺さった。背中には穴が開き、体内に満ちてきた血液が瓶の口からあふれ出るようにこぼれる寸前、私は咄嗟に手のひらを傷口に強く押し当てる。この子をこの子たらしめている固有の魂のようなものが多面体の結晶となり、血液と一緒に体の外にこぼれ落ちてしまいそうで。

なぜか私は親戚の住むT町へと向かい電車に乗る。そこには存在しないはずのビル群が林立し、雑居ビルの一角に動物病院がある。私は慌てふためきながら診察台にうさぎを乗せ、恐る恐る手のひらをうさぎの背から離す。傷口はすでに瘡蓋のようになっていて、瘡蓋も毛色と同じように金属的で美しいシルバー色に輝いていた。
うさぎはじっとしていて、痛みをこらえているのか、悲しんでいるのか、あるいは全く何も感じていないのか、さっぱり分からない。その瞳は相変わらず瑕一つない完全な球体であり、無のようであり永遠のようでもある。

なぜきょうだいに会わせようなどと思ったのか、家の近くにも動物病院はあったのになぜわざわざ遠い街まで行ったのか、自分で判断したことなのにその決断の経緯が全く意識に残っていない。自分の誤った決断によってこんなにも愛しい私のうさぎを失うかもしれなかったのに、記憶をいくら掘り起こしても何も出てこないことに激しく苛立つ。世界から決断という行為がすべて消えてなくなればいいのにと思う。

無神経な人

精力のすべてを傾けて、普通の人の普通の言動を模倣することに努めていた子供時代。些細ないじめにあった体験があり、深刻なものではないけれど、周囲に無視されたり酷い言葉が書かれた紙が下駄箱に入っていたりした。何でも思ったことをズバズバ言っちゃうよね、無神経だよね、というようなことが書かれていて、うちのめされるような思いがした。

毎日疲れ果てるほど自分の言動に心を配り、無神経なことを言ってしまわないように神経を張り詰めて生活しているのに、それでも無神経と言われてしまうのか。もうこれ以上どうしろっていうんだ!と。
他人が何を気にして、何を言われるのを嫌だと思うのかが結局よくわからない。

こういうことを記憶の中から掘り起こして書くことに何の意味があるのか、過去にかかずらわっていないで今を生きろ、と自分に言い聞かせていたけど、それでもふと思い出されてしまう時、それを言葉にしてこんな風に吐き出すことで、その時の思いを弔うことができて、その後度々思い出されることがなくなっていく気がする。

中学生の時、割と仲良くできていた子の家に三人で集まることになった。一人の子が遅れてくることになり、私と友達は二人で先に家に上がって、お菓子を食べた。友達は、三人目の子が来たら先にお菓子を食べていたことは内緒にしようと言った。私は深く考えることもなく二つ返事で同意した。その後三人目がやってきた時、私はその約束をすっかり忘れていて、友達が改めてお菓子を出してきた時にうっかり「また食べるの?」と言ってしまった。あっしまった!と思ったけれど後の祭りで、冷たい目で睨まれた。

先にお菓子を食べて待っていることが内緒にするほど悪いことなのかがわからない。嘘をついて食べていなかったふりをするのが、三人目の子に対する思いやりなのだろうか。今考えてもそう思えない。親切な嘘なのだろうけど、そんな嘘をつく意義がわからない。
何でも同調しようとする癖から、何も考えず口裏を合わせることに同意してしまったけれど、その意味がよくわかっていないから、約束が意識に残らずどこかに流されて行ってしまった。
もし私が遅れて行ったとしても、先に二人がお菓子を食べたとして仮に私だけ食べられなかったとしても、それは私が遅れたせいなので、何も感じない。先に食べたなんてひどい!と怒る人がいるのかもしれない。そんなふうに怒られて嫌われないように、潤滑剤としての嘘を予め撒いておくのだろうということは理屈で考えてようやく分かることで、感覚的には今でも全く分からない。

その事で仲良くしていた友達との関係にヒビが入ったりはしなかった。その子が許容してくれたのは幸いだったけれど、こうやって地雷を踏んでしまうのはまだ自分を律しきれていないってことだ。もっと気をつけないといけないと戒めた。
大人になっていくほど気をつけなければいけないことは増えていくのが当然で、最後は処理しきれなくなってメルトダウンしたという感じ。持続可能じゃなかった。

持続可能にするには、あえて地雷を踏むくらいの気持ちで生きるしかなくなった。それでもまだ、昔のように疲弊するのが怖いし、人の間で揉まれるのが苦痛で仕方ない。かといって完全に孤独に生きていく覚悟もできない。理解してくれ完全に許容してくれる、心からの安らぎを感じられる相手がたった一人でもいてくれることが、私にとっての究極の幸福なのだと思う。それ以上でも以下でもなくて。

暇つぶし

人生は暇つぶしだって誰かが言ったそうだ

大層な意味付けをしたがったり
仰々しい目的を掲げてみたり
運命だの宿命だの使命だの言っては
自分の人生を素晴らしく価値のあるものと思いたくて
大騒ぎして泣いたり笑ったり

暇つぶしに良いも悪いもない
正しい仕方があるわけでもない
暇つぶしを深刻な面持ちで苦しみながらしているのって
最高に滑稽で笑えるでしょ

頭空っぽにしてその瞬間したいことをする
したくないならしない
その連続をただ面白がっていればいい