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シャガールの恋人たち

私たちはバスツアーのようなものに参加していた。ツアーというよりも、もっと大きな意味での旅、民族が大移動するような旅だった。ある小さな町で停まり、古びた風情のある町並みに、土産物店が幾つも並ぶなかを歩き回る。周囲の人々はすべて同じ移動に参加している仲間だったけれど、知っている人はパートナーの彼以外誰もいなかった。

ワイン色のどことなく地味なロングカーディガンと、黒の落ち感のある生地のロングスカート。自分の着ているものがとても時代遅れで格好悪い気がして、恥ずかしかった。ツアーの参加者はみなそれぞれにその人らしく自分に似合うものを知っていて、存在感のあるお洒落な人ばかり。自分の軸をしっかり持っているという印象。知らず知らず比較して、劣等感を抱いている。

パートナーが歩いてくる。灰色のもやのなかに、さっと一筋の陽光が射す。背後に陽射しを背負い、横顔を光が縁取った。振り返り、眩しそうに目を細めるその様子を私は見ていた。彼は古くなってヨレヨレのダウンコートを着ていた。吐く息が白く煙った。その光景は完璧に美しく、自分はこの人にふさわしいだろうかと少し怖くなった。

私たちは一軒の店に入る。店の内部には藁が敷き詰められてあり、その上に鶏の首がふたつ転がっていた。切断された鶏の首は一見おもちゃのようで、気味悪さは何テンポも遅れてやってきた。気味悪いのに、笑顔が崩せない。笑ったままでゾッとする感情を味わい、店から駆け出した。
私たちは手を取り合って走り、腕を絡ませたり、氷上で踊るスケーターのようにくるくるとお互いを振り回したりした。シャガールの絵画の恋人たちのように、現実にはありえないような体勢をとって、アクロバティックに走り続ける。楽しくて仕方ない。

私たちは、夜の公園にたどり着いた。(家の近くに実際にある公園だった。)公園の中に足を踏み入れると、砂の上にテディベアが何体か落ちていた。ひとつを拾い上げてよく見ると、細い枯れ枝がたくさんついていて、棘が刺さっているかのように見える。青いギンガムチェックのバンダナを首に巻いたそのベアは、闇の中で私をじっと見上げた。かわいそうだから、この子たちを連れて帰ろうかと、彼の瞳を見つめてテレパシーで話しかけた。彼は、好きなようにすればいい、それを尊重するよとテレパシーで返してきた。

よく見ると、テディベアは六体あって、時計の七時から十二時の位置に置かれている。誰かが残りのベアを持ってきて、時計を作るつもりでいて、今はその途中なのだと直感した。夜明けとともに時計作りは再開されるのだ。勝手に持ち帰る訳にはいかないと分かり、後ろ髪を引かれる気持ちでギンガムチェックのベアとお別れした。

シャガールの絵みたいな雰囲気だったと、書き出してから気がついた。鶏もシャガールによく出てくるモチーフだし。

甘口であたたかい後味

韓国ドラマ『愛の不時着』 視聴終了した。

脱北者の方が実際に監修に参加していて、北の庶民の暮らしがリアルに描かれていると評判のこの作品。流行りものにはあまり手を出さない方だけど、これは誘惑に負けて観てしまった。

ワンシーン出演した脱北者の方が、かつて北にいるときに隠れて観た韓国ドラマ「私の名前はキム・サムスン」に出演していたヒョンビンが実際に目前にいて、とても妙な気分だったと話していた記事を読んで、印象深かった。私達でも観ていたドラマの主演が目の前にいたらびっくりしてドキドキするだろうに、より重い背景を背負った方はどれだけ感慨深いものだろうと想像すると、なんとも言えない気持ちになる。

何をさせても完璧な無欠のスーパーヒーローが、ヒロインを守ろうと奔走し、どこまでも献身的に尽くす。ただ無欠なだけでなく、生真面目で、どこか抜けていて内面が分かりやすく、母性本能をくすぐるところまで含めて完璧な男性像。観終わったあとにヒョンビンロスになる人が続出というのもよくわかる気がした。
ただ、激甘の恋愛シーンが気恥ずかしくなってしまい、どこかのめり込めない感覚を持った。私だったらこれほど献身的になれるだろうか、私自身これほどの献身を捧げられるだけの魅力ある人物であるだろうかと、妙な自省が入ってしまう悪い癖が出て、どっぷりと嵌まり込んで酔うことができず、冷静になってしまう自分を発見したり。

私としてはもう一つのラブライン、ピョンヤンの裕福な娘と、ソウルから逃げてきた詐欺師との恋のほうが、切なくて良かったな。胡散臭く見えていた彼の背景が明らかになるにつれて、観ている私も、彼女と同じく気づけば恋に落ちていたような感覚になった。

北朝鮮の田舎での暮らし、近所のおばさんたちと部下の若い軍人たちが、みんなキャラが立っていて、造形がとても巧みだと感じた。欠点も含めて人間らしく愛らしい人たちばかりで、人間関係のもたらす良い部分だけにフォーカスし、嫌な部分は完璧に切り捨てて、率直に人間っていいものだと思わせてくれる。その点は韓国ドラマ全般に共通していて、そこがハートウォーミングで癒やされる理由でもある。視聴者の求めるものを分析して、組み立て商品化する、ドラマというものはパッケージ商品なんだと改めて思う。その意味でこのドラマは、ヒットして当然の、とても優れた商品と言えると思う。

部下の一人が韓国ドラマに夢中で、任務中に隠れて観た「天国の階段」のチェ・ジウに実際に会わせてもらい、夢のようなひとときを過ごすというシーンがあって、笑えた。他にもチョン・ギョンホ、キム・スヒョンカメオ出演していて、そういう細かい所のサービスも行き届いている。

オーラを引き寄せる

オーラというものは、広がりすぎては良くないものなんだそう。なんとなくふわっと大きく広がっている方が、縮こまっているよりいいのではないかと短絡的に思っていたので、ちょっと驚いた。
体から40~50cmまでの範囲にオーラが収まるようにすると良いとか。思ったより小さい感じがする。広がりすぎていると、他人との境界が曖昧になり、影響を受けすぎてしまう。

イメージの中だけでも、オーラをきゅっと小さくして、自分の周囲に留めるよう意識すると、周囲の人のことが気にならなくなる気がする。どう思われているか、どう見られているかはもちろん、理解されるかどうかとか、人を傷つけてしまわないかとか、そんな心配も自然と消え失せる気がした。
人のエネルギーに振り回される感じで消耗してしまう私は、だだっ広くオーラが広がってしまってたのかも。

小さい頃から人とどうコミュニケートしたらいいかわからず、ひたすら人を観察して、人と同じ言動を取るように自分を調教することでサバイバルしてきた。そのために意識が外向きになり、オーラが広がっているのが当たり前になってしまっていたのかな。
自分が宇宙人のようで、ひどい疎外感をいだき、地球のしきたりに馴染むことが出来ず苦しんだ。馴染めないものに馴染む必要なんてなかった。人と同じにしなくても良かった。
オーラを引き寄せることを意識したら、自分に起こっていたことが、また違う角度から理解できた気がした。

濡れたポケット

私は数学の教師だった。教師なのに、生徒のように教室で着席して、授業を受けている。数学をどう指導するかという授業らしい。私は、高校生なら皆学んだはずの簡単な問題に四苦八苦する。もう卒業してだいぶ経つから、忘れてますよね?忘れてませんか? と周囲に同意を求めるけれど、冷たくあしらわれる。
同僚の数学教師Cが私の前の席にいて、私のざまを笑っている。それは侮蔑の笑みではなく、まったくしょうがないなぁという台詞で置き換えられる、慈愛に満ちた微笑みだった。

彼は、小さな瓶に入った乳酸菌飲料を飲んでいる。はっと思い出して、履いていたショートパンツのポケットに手を入れる。空だった。ポケットの内部は少しだけ湿っていた。飲料の小瓶を入れたままにして忘れていたのだ。冷えた小瓶は結露して、ポケットを濡らしていた。彼の飲んでいる飲料はどこから持ってきたものか問いかける。彼は笑いながら、脚で私のショートパンツのポケットを指し示した。分厚いストッキングを履いた私の脚に、彼の脚が一瞬触れた。その瞬間、永い時を越えて彼に想いを寄せてきたことを思い出す。放流されたダムのように一気にあふれ出す記憶。濡れたポケットがじんわりと冷たさを肌に伝えている。

闇のなかに、彼と私はふたりで沈んでいく。辺りはあまりにも暗く、ふたりの腰掛けているベンチの硬い木材の感触以外、なにひとつ確かなものがない。心許なく、私は思わず彼の手を掴んだ。返ってきた言葉はすべて想定したとおりだった。これ以上無く優しい言葉を選び、彼はひとつひとつを入念に配置した。彼には三人の子供がいて、守らなければいけないものがあるということ。手に入らないものばかり求めてしまう理由も、闇の底に落としてしまったままで、何も見えない。

小さな革命

そうすべきと思っていたことを すべきでないに置き換えてみる
悪いことだと思っていたことを 悪くないと思ってみる
良いことだと信じていたことを 良くないのかも知れないと思ってみる

価値観を反転させてみることで 自分の歪みがよく見えてくる
それは日々の 小さくて 偉大な革命