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命のための祈り

『食堂かたつむり』 小川糸 著  読了した。

食べるということは生きるということ。自分以外の命をいただくことによって、私達は生かされている。命というものの持つ価値、生きることへの讃歌。この物語は最高の食育となり、命とは何たるかを教えてくれる最高の教科書となるのかも知れない。

わかってる。この小説の語りかける温かな世界については。ただ、それが私の魂に届かない。これは私の問題。私の魂までの間に、分厚く透明な結界があり、そこを超えることができない。感動できない。心が震えない。心の底に届かない。
肉体よりも「魂」に、自分を同化している。身体を心から大切に思えていないのかも知れない。

身体は誰のものでもないのなら、この物語の中で、ペットとして飼っていた豚のエルメスを、この世を去りゆく母のために捌いて食してしまうということも理解できる。食することが最大の供養であり、祈りであるということも。でも共感はできない。

私は個を超えた命という大きな力に、愛よりむしろ恨みがましい思いを持ってきた気がする。個というエゴの世界を超えられていないだけなのかも知れない。命という根っこで皆つながっていることを受け入れられないだけなのかも。

でも、毎朝豚に食べさせるためのパンを粉から捏ねて焼き上げるほどの手のかけようで、子供のように愛していた豚を、自らの手で捌き、食べることでその生命を崇拝しようということは、やっぱり、私のとは違う星での価値観だとしか考えられない。
その豚の命の終わりも、終わり方も、人間の意思で勝手に決めているのに。豚は身体を供することを受け入れて、愛に満ちて死んでいくのかも知れないけれど、そうではないかも知れない。そうだと決めつけているのも人間なのに。自分たちの都合の良い美しいストーリーを捏造しているようにも思えなくもない。

この世で命を与えられることが、どこか一種の刑罰のように感じられてしまう私には、命を語る資格なんてないのかも。自分の命、すべての命を心の底から愛せるようになれば、また違う見方ができるのかも知れない。命への本物の愛が足りないからこそ、可哀想だなどという安っぽい言葉に埋もれているのかも知れないと思った。

母親との確執という部分においても、この物語は私の人生と重なり合う部分が少なく、共感しにくかった。親との決定的な亀裂という部分では同じだけれど、親の人生が紐解かれ、知らなかった部分が見えてくるにつれて、親の人生が立体的に浮き彫りとなり、全体像を知った瞬間、すでに恨みつらみは解けている。けれど変な意地を張ってしまい、素直になれず、愛と感謝を伝えることができなかった……すごく理解はできる。

私の体験はこれの逆を行っていて、父の全体像が見えてくるにつれて、幻滅の度合いが増して行ったという経験から、どうしてもこのストーリーへの手放しでの没入が難しかった。

この作家さんは、なんだか、私とは何もかも対極の世界に在る方のようだ。それをなんとなく肌で感じて、逆に読んでみたくなったのだという気がする。反対にしてみると、見えてなかったものがよく見えてくるのかな、なんて。

料理をすることは、祈りそのものだと言う主人公。
それに引き替え、食べてはうんちして、食べては歯を磨き、食べてはお皿を洗い、人間は馬鹿みたいだなあ、というのが口癖の私。与えられた命に吹き込んで来た息の総量が違いすぎて、同じ命を生きているとは思えない。

料理の行程の一コマ一コマを丁寧に丁寧に慈しみ、生活の小さな営みの一つ一つにまで真心を込めて、主人公のように細やかに生きることは難しいと思うけれど、せめてもう少し生きることを丁寧に扱わないといけないと戒められた。
食べることすら面倒くさい、料理することなんてもっと面倒くさい。それは生きることが面倒くさいということだ。たしかに私は、生きることのすべてが面倒くさくてたまらなかった。

 

聖域を守る

心に健全な壁を作っている人ほど
壁がなく心を開け広げているように見えるのでは?
本当は逆なんだ
私みたいに 人と接すると花壇に土足で踏み込まれるように感じる人ほど
健全な壁を持って自分をきちんと守れていないんだ

人との間に壁を作るのは良くないことだ とか
こちらが心を開けば相手も開いてくれるんだ とか
手垢のついた道徳論に惑わされ続けて

自分を守るためにそもそも花壇に立ち入らせなければいい
入ってはだめですとはっきり言えばいい
それができずに 他人を責めるのはお門違い

自分の聖域は自分で守る
誰彼ともなく立ち入らせるのが正しいことなんかじゃない

「壁がない」ように見える人ほど
本当の聖域は誰にも見せないのかも知れない
バリケードで完全に守られている
だからこそ開けっぴろげに接することができるんだ

淡い水色のシャツ

CDのジャケットは、黒いキャンバスの上、赤や黄色や、蛍光ピンクの絵の具が舞い踊る絵画。自我を廃して、神の意志の通り道となり、色彩を鏤めたオートマティック・ペインティングのようなものだった。

ケースからCDを取り出し、恐る恐る再生する。音声はくぐもっていて、ボリュームを上げても、靄がかかったように聞き取りにくかった。ジャケットと同じ図柄の描かれたCDを、プレイヤーから取り出そうとする。ディスクは非常に熱せられていて、指を容赦なくはじく。持ち上げると、とろけたようにぐにゃりと曲がり、自重で滴り落ちそうになる。空気で冷やされ、固まって、中央からパキリと音を立てて割れる。細切れになった絵画が、色とりどりの薔薇の花弁のように、床に散らばった。
想い人の作り出す音楽を、これで聴くことはできなくなった。絶望よりも深い安堵が、私を侵していく。

彼はステージに立っている。知人のステージに友情出演しているようだ。場違いな場所に足を踏み入れ、申し訳無さそうにはにかんでいる、そんな光景に私には見えた。

彼は、淡い水色のシャツを無造作に着崩していた。ひろがる乳の海に、たった一滴青いインクを垂らしたような、消え入るような水色。その青色の生まれた場所を、私は知っているような気がした。しかし、ステージの強引で独尊的な照明のもとでは、限りなく幽かな色彩は、いとも容易く殺されてしまう。あるいは単純に、照明によって真っ白なシャツが青みがかって見えただけかもしれない。合理的に考えれば、そうに違いなかった。

共演するステージ上のメンバーに対し、観客に対し、彼は深々と頭を下げた。両腕を体の横に添わせ、掌を太腿に押し当て、四方八方に向けての敬礼。やや長めの髪が、額に、頬に落ちかかる。そのたび神経質に、頭を僅かに後ろへと振り、整えようとする。謙遜と傲慢が同居するかのような、どことはなしに矛盾を感じさせるその仕草を目にして、体の深部の、そのまた奥から、熱さが込み上げてくる。名状しがたいその熱は、たった一つの出口を求めて、目頭に凝結した。

いびつな像

憂鬱になるのは 魂の真実とかけ離れたことを考えただけ
幸せになるのは 魂の真実と響き合うことを考えただけ
たったそれだけのこと

感情も気分も 思考から始まり 思考から生まれる
思考とは
自分の心のスクリーンに何かを映しているだけで
決して 絶対の真実ではない
むしろ歪んだいびつな像がそこに映っていると思ったほうがいい
経験によってひずんでしまった古い色眼鏡で世界を見ているから

思考に溺れなければそれでいい
生まれる思考にかかずらわることなく
ただ流してしまう
淀みなく流れる水のように
少しでも滞ると腐り始めるんだ

シュールな自虐ネタ

『ほえる犬は噛まない』ポン・ジュノ監督の長編デビュー作。
ポン・ジュノ監督は初期の作品が好きかも。『殺人の追憶』もとても好みだったし、最近の、評価の高い『パラサイト〜半地下の家族』とかよりむしろ良いんじゃない?

このデビュー作も、細かいエピソードを上手にパズルのように組み合わせていく感覚が、凄く生きていると感じた。なんとなくシュールで、得体の知れない感じが上手く醸し出されて、ちょっと残酷なシーンなどあるのだけれど、なぜかその残酷さが上手に変換されてしまって、シリアスにならずにスルッとすり抜けて逃げてしまう。とはいえ、犬を殺すシーンなどは不快で目を逸らしたくなり、コミカルな映画だとは感じられなかったけれども。

ボイラーキムさんの怪談話とか、奥さんが胡桃ばっかり食べるところとか、トイレットペーパーを転がしてコンビニまでの距離を測ろうとするシーンとか、カラオケで歌ってる歌が「フランダースの犬」のテーマだったりするところとか、列挙しきれないけれど、細かいところがツボすぎてもう大好き。

犬の肉を食べるという文化があり、それを野蛮だとか否定するつもりはないけれども、そのような文化的な背景や、賄賂で世渡りしなければ上に行けないという社会構造、そういった韓国に根ざした悪癖と言っていいような部分への「自虐」の意識が、根底に流れている気がした。なので、この映画の造り手側が、誰に非難されるより前に、自分で自分に突っ込んでいる感じがして、不毛な内容に対しても哀れを感じさせる気がした。それが醸し出される不思議な空気感に、さらなる味わいを加味している。

ストレスのはけ口に犬を殺し、教授に袖の下を渡し、罪の告白をするも全く気づいてもらえず……。そうやって手に入れた念願の教授職も、空虚なものとなるのは当然のこと。その虚しさを、彼はこの先どうやって紛らわしていくのだろう。もう犬は殺せないし。

ペ・ドゥナの仏頂面が最高にキュートで、この女優さんだから成り立っている映画なんじゃないかなぁとしみじみ思った。他の配役も端役に至るまで、すべて個性が際立っていて素晴らしかった。