SITE MÉTÉORIQUE

Dépôt de Météorites

ドリアンのような臭気

『毒戦 BELIEVER』 2018年の韓国映画を観た。

パク・チャヌク映画の脚本家だって。たしかに、華美で過剰でグロテスクで、どこかキュビズムの絵画を思わせるようなテイストが共通している。ドライでザラリとした質感のノワールじゃなく、ジトッとした情のからむような湿度がある。その湿度が、ドリアンみたいな強烈な臭気をより凝縮し、際立たせている感じ。

グロテスクなシーンは目を覆った。でもなぜか不思議と、嘔吐したくなるような嫌悪感が残らない。なぜなんだろう。主演のチョ・ジヌンの清廉で実直な存在感が、それ以外の全てと対立して、相手を一手に引き受けて均衡を保っている、というような。この俳優さんは、はじめの印象より、物語が進むにつれ、魅力が百倍増しになって、ラストシーンでは超イケメンに見えてくる。ドラマ『シグナル』でもそうだった。

細かい所の作り込みは流石に素晴らしくて、潜入捜査のシーンなどは息を呑んで、完全に時を忘れた。密売人キム・ジェヒョクの狂気が凄まじく、背後から首筋を冷たいナイフで撫でられているような戰慄を、観ている側にも十分に味わわせてくれる。表面的な、奇をてらったキワモノ的な演技では決してなく、本物の内臓が詰まった人間に創り上げているのがすごいなと思った。

こういうジャンルは苦手意識があったけど、アクションやドンパチを敬遠する向きにも、強く訴えかけるもの有り。
韓国の映像作品が好きなのは、共通して、「事件」よりもそこに生きる人間の「生」を描くことに主眼が置かれ、ブレることがないからだと思う。黒幕は誰なのかという謎解きでストーリーを牽引しながら、最終的に着地するのは、社会の不条理に飲み込まれて傷つき壊れた、弱き者たちの無言の叫びであり、その歪みがひき起こす巨大な地震と、後の廃墟の静けさ。

香港の『ドラッグ・ウォー 毒戦』のリメイク。オリジナルの方も観てみたけれど、ドキュメンタリーのようなタッチで淡々と展開し、派手なドンパチですべて決着がつく。後になんにも残らない。(それが作品として劣っているということではないにしても)
私は、芸術性においても、含みある締めくくり方においても、二重三重に編み上げることに成功している韓国版の方が、断然好み。

嫌なことはしない

嫌なことはしない 
気の向かないときはしない
何の我慢もせず 浅はかな配慮もしない

何かをしたいような気がしても いざ取り掛かるには抵抗が強すぎる
だとしたら無理に足掻かずに手放してしまう

「やらずに後悔するよりやって後悔したほうがいい」
手垢のついたそんな警句に 胸がチクリと痛む
それも程度によりますよ
やり散らかして苦しみ続けてきたなら 学び直すとき
何でもいいから前進したい
ハンドルぶっ壊れてるのにアクセル踏み込む
手当たりしだいに方向転換
アクセルぶっ壊れてるのにハンドルいじり続ける

壊れたものを蹴っ飛ばしても動かない
それすらできなくなって ようやく止まる
それが私の人生

本当に必要なことなら必要なときに 必ずできる
無駄に動き回って消耗しない
どんなに長い時間でも
何年でも何十年でも
傷ついた動物のようにうずくまればいい

夢なんてない方がいい

夢なんてない方がいい
叶うと心から信じられるならばそれを夢見る必要はなく
それはすでに夢ではないのだし

夢が何もなければ
それが叶わないという苦しみもない
何の夢もないことがいちばん素晴らしい

夢や希望といった言葉に膠のようについて離れない
偽善と嘘のにおい
それが我慢ならない

諦めず頑張れば夢は叶う?
冗談はやめてください
頑張っても叶わない夢もあれば
頑張らなくても叶う夢もある
叶った夢はその人の人生に必要だっただけ
叶わないのなら「それが叶わないという経験」が必要だった
ただそれだけ

眠っている間に見る「夢」と
将来の希望としての「夢」が
同じ言葉なのはどうしてなんだろう
何故だか
希望という夢を手放していくほど
夜に訪れる夢は色鮮やかになった気がする

人生への意欲とこだわりを捨てるほど
意識のより深部まで撹拌されて浮かび上がる
自分が何にしがみついていたかが見えてくる
なんとなくそんな気がする

 

頑張らないことを頑張る

頑張らないことを頑張ってきた
できないことや頑張れなかったことを諦めるということを学んできた
手放すということを学んできた
逃げ出してしまうということから逃げ出さなかった

頑張ることを生きる目的として
頑張ったことで自分を認めたい人々と
私自身を比較しない
全く違う物差しで測ることに意味はない
意味がないどころか
それは罪悪
自らに振り下ろす鞭でしかない

これは自己弁護のように聞こえるけれど
そうならば今まで
こんなに苦しむことはなかった

 

青い悲しみの気配

どこか東欧の古い街並みにいる。近未来的な、どこまでも冷ややかで無機質な建造物に混じり、数百年の息吹を感じさせる古い建物が林立している。秩序の消えたその街で、オリンピックのような大規模な競技大会が催される。

私は、想いを寄せる男性と一緒に観戦をしたかった。スポーツの内容などどうでもよく、その人と共に在ることだけが大切だった。彼は、男子のテニスを観戦したいと言った。その言葉に、私はなぜだか、冷たく突き放されたように感じた。その感覚は曖昧で捉えがたいものだったけれど、意識のなかで容赦なく拡大していき、内なる闇がさらなる闇に刻々と沈んでいく。

彼は私と一緒にいたくないのだろうと、闇はその気配を翻訳した。これ以上しつこくしたら嫌われてしまうかもしれない。私は彼と離れて、独りで競技会場を彷徨った。
自らの勝手な判断で、勝手に傷心した自分の心が、得体の知れない未知の生物のように蠢いている。

 

巨大な教会の中庭に、池のような沼のような水溜りがあった。水際はさざ波立って、小さな海のようだった。水は限りなく透き通っていて、淡く棚引く青い気配が揺れていた。その清らかさはこの世のものとは思えない。その水に足を浸しながら、世界をファインダー越しに見つめ、一幅の絵として保存したい衝動に駆られた。肩からかけていたバッグの底を探ってみる。カメラをホテルの部屋に置いてきたことに気づく。

隣に、古い友人二人が立っている。いっとき孤独を紛らすことができても、より深い本質的な孤独を深めるだけだということを私は知っていた。彼らの見ているものは全く別の絵画であることを。同じものを見つめていても、それを映し出すスクリーンがあまりにも違いすぎるので、そこで認識されるものも全く異なる。それはあまりにも当然のことながら、当然と受け止め切れず、乾き切ってひび割れた樹皮のように、心がささくれ立つ。

友人たちは、売店でどんなお菓子を買うかを話していた。一人が立ち去り、何かを買いに行った。それきり彼女とははぐれてしまった。大勢の人が行き交い、喧騒が響き合う祭典の場で、世界と溶け合えず、世界から弾き出されたように感じられる。どんなにしつこくしても、あの人から離れなければよかった。テニスの会場から立ち去らなければよかった。カメラを置いてきたこともそう、何もかも判断は自分でしたこと。過去の選択が、今の自分の足をすくって転ばせ、ほくそ笑んでいるかのようで、過去の自分に激しく苛立つ。