SITE MÉTÉORIQUE

Dépôt de Météorites

『うさぎとかめ』の別解釈

うさぎはいつもスタートダッシュは得意
大抵のことはうまくこなせる

途中であれっ?と考える
わたしはなぜ競走をしているのかな
なんのために勝負をしているのかな
かめに勝ったらそれでどうなるというの?
こんな勝負に意味なんかあるの?
うさぎは走ることの意味を見失う

でも走らなくちゃいけないような気もする
みんなはその価値を疑っていないし
かめに勝ったら褒めてもらえるだろう
だけど一旦迷いの生じたうさぎの体は重く
もう走れないと立ち止まる
空を見ながらぼんやり考える

かめはゴールだけ見てひたすら進む
やがてうさぎを抜いてゴールする
かめはみんなに讃えられ達成感に満たされる

うさぎはそれを見てもやもやとする
勝負を放棄したのは自分なのになぜか悔しい
その悔しさに向き合うしかない
自分の判断に責任を取るしかない

それでもこの勝負になんの意味もないことに
気づいてしまったから
泣きのもうひと勝負はありえない
わたしは負けたけど負けたんじゃない
ほんとうに大切なことを知ろうとし始めたんだ
そう自分に言い訳をする

そしてそれは言い訳なんかじゃない
そう自分に言い聞かせる

 

向上心を捨てる

人が 生まれながらに愛そのものであるのと同じように
向上心や何かを達成したいという願いを持たない人は いないんだと思う
だから無理矢理に向上しよう達成しようと 必死になる必要はない

足りないところにばかり注目し
自分を責め 虐げることに常に意識が行ってしまう
知らず知らず 他人と自分を比べ
自分の至らない部分を探し 叩こうとしている
そうしなければ成長できないと血眼になっている
向上心と自虐が同じものになっている
自虐すればこそ進化があるという どこまでも根深い思い込み

気づいたなら 自分を『抱擁椅子』に座らせてあげる
自分をギュッと抱きしめ内側を向かせるだけで深く安心する

成長も 達成感も要らない
それは求めるものでなく やってきたときに味わう おまけのようなもの
道徳の教科書のような精神論を捨てることで 
本来の自分に還っていける

死ぬ瞬間に よくやった と思えるならば それでいい

 

抱擁椅子 ──『ウ・ヨンウ弁護士』の記事参照

妖怪人間

高校のとき、ちょっと変わった男子がクラスにいた。
当時はそうは思っていなかったけれど、今思えば、トランスジェンダーっぽい感じ。男子にも女子にも誰彼ともなく話しかけ、どちらにも同性に接するように接していた。

圧倒的な圧で迫ってきて、弾丸のシャワーのように話しかけてくるので、変な奴……とは思った。口数の少ない私にとっては相手が話しまくってくれる方が楽だし、彼と話すのはそんなに嫌ではなかった。
私から見ると、他のクラスメイトたちも、彼のペースに巻き込まれてついつい相手をしてしまうという感じには見えたけれど、誰もそんなに嫌がっているようには見えなかった。

通っていた高校は、男子のほうが女子の3倍程度いて、同じクラスに一年いても話したこともない男子が大部分という、ちょっと変な校風だった。女の子同士は流石に話したことがないなんてことはないけれど、本当に男子はまったく接点がなく、顔と名前が一致してない人さえいたかもしれない。
そんな距離感の中でだからなお、男子が女子に同性のように馴れ馴れしく話しかけるというのは普通ではないことだった。

 

ある時、女子だけでいるときに彼のことが話題に上り、「鈴鹿さんはすごいね、アイツと普通に話してるもん」と、皮肉とも取れる言葉を投げかけられて、びっくりした。
その時、彼が「妖怪ベム」と陰で呼ばれていて、(ベムと彼の名字の響きが近かったので、それに掛けてもいた)かなり疎ましく思われていたということに、初めて気がついた。私からしたら、みんな普通に彼と話してるじゃん!と思ったのだけれど、みんなは普通に話していたのではなかったと知り、あまりに驚いて言葉を失ってしまった。

私が尋常でなく鈍くて、空気が読めなかっただけなのか。彼も空気を読めず、嫌われているのに気づかず話しかけていたのか、それとも嫌われていると分かっていても、お構いなしに攻め込んでいたのか、色々なことが一気にわからなくなった。

その後も、ベムは馴れ馴れしく話しかけてきて、下の名前で呼び捨てにしてみたり、私にどのヘアスタイルが似合うとか似合わないとか勝手に評してみたり、ありえない距離感で接してくることが続いていた。自分のテリトリーに他人がグイグイ入ってくることが大嫌いな私なのに、ベムは関しては、違和感を感じない。もちろん彼に特別な思いなんて持っていない(!)し、これはどういうことだろうと、自分でも不思議だった。

むしろ、ベムに普通に接しているように見えたのに、実は陰口を叩いていた女子たち。こちらのほうが恐ろしくなって、それまでも上手に接することができていなかったのが、さらに輪をかけて苦手に感じるようになった。

 

こんなことを書いても、自分がどれだけ社会性に欠けているかを暴露しているようなものだけど。もしかして私は発達障害の、自閉症スペクトラム障害のグレーゾーンなのでは?と考えてみたりもした。

私くらいの程度では、医師に相談しても発達障害とは診断してはもらえないだろう。でもたしかに、特有の生きづらさを抱えてずっと生きてきたと言える。ベムもADHDっぽいところがあったように思える。落ち着きなく多動性だった。
そういう「普通」からややはみ出した点で、どこか共感することができたので、私はベムに対し嫌悪感を感じず、特別な親しみも感じなかったけれど、それなりに仲良くできたんじゃないかと思う。

自分が病気であるとか、障害であるとか考えることで、それに同化する力が働き、絡め取られるように、より症状がひどくなるような気もする。だから今後、自分がそうだとは見做さないようにしよう。何の得もないから……とも考えた。

病気だから仕方ないとまるごと受け入れれば気持ちは楽になる。でも病気のせいにして逃げている気もする。こんなの病気でもなんでもないと突っぱねて生きれば、自分を十分に理解せず無理をさせることになりうる。どちらがいいのか、よくわからなくなった。病気でも障害でもなんでもなく、ただの特性なんだと思えばそれでいいのか?

ドラマ『ウ・ヨンウ弁護士』を見たことがきっかけで、ここ最近そんな事を考えて、ベムのこともその流れで思い出した。彼は今、どうしているかな。

自分のこと、これでいいと思えるようになってきたから、普通からはみ出ている自分が大好きだから、できないことはできないままでいいと思える。人と違っている部分を大切にできる。
否定して陰口を叩くなら、その人たちのほうが歪んでいるんだ。
相変わらず、私は変わった人が大好きだ。

 

一粒の葡萄の瞑想

体の中心から 光が降りていく
どんどん どんどん降りて 地球の中心まで達する
マグマに熱せられた光が また上昇してくる
私の中心へと 美しく赤みを帯びた光が還流する

体の中心から 光が昇っていく
どんどん どんどん昇って 宇宙の中心まで達する
星々に彩られた光が また下降してくる
私の中心へと 美しいゴールドの光が還流する

地球からの光と 宇宙からの光が対流し続ける
2つの光の重なるところ 私の中心でそれは火花を散らし
鎖をつなぐようにして交わる

私の中心に 魂のかたまりがある
光のつなぎ目と 魂とがぴったりと合わさったとき
光に融かされるように 塊の周囲にある薄皮のようなものが一枚剥がれる

双方向からの光が流れ続け
また一枚 薄皮が剥がれる
もう一枚 また一枚 次々に 皮が剥がれ続け
これ以上剥がれられない 核の部分に達する

それは 葡萄の一粒のように みずみずしく
柔らかく 無防備で
どこかいたいけで 愛らしい
その一粒に 宇宙からの光 地球からの光がなだれ込み
刻々と 対流を続ける

皮とともに さまざまな汚れが剥がれ落ちていき
光に圧縮され 
葡萄の一粒から ひとしずくが滴り落ちる
それは葡萄の涙
悲しかった 苦しかった 胸が痛かった
葡萄が泣いている 訴えている
私は その涙を優しくぬぐってあげる
いつまでも その声に耳を傾ける
願いを受け止めてあげる

双方からの光は いつまでも対流を続ける
剥がれた皮や 涙は 綺麗に流し去られる
葡萄の一粒は 輝きを増し
みずみずしく柔らかいまま 水晶のようにきらめき始める
双方からの光は もっともっと注ぎ込まれる
葡萄の一粒が満ち足りて 微笑むまで 惜しみなく対流は続く

 

ギュッとしてくれる椅子

韓国ドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』 Netflixにて視聴。

「上から読んでも下から読んでもウ・ヨンウ。キツツキ・トマト・スイス・子猫・南…」
自己紹介の際に必ずこの定型句をぶっ込んできては相手を凍りつかせる彼女は、韓国初の自閉症弁護士。あらゆる法律を一言一句違わず暗記し、司法試験をほぼ満点で通過したにもかかわらず、職場のビルの入口にある回転ドアをどう通り抜けたらいいのかわからない。

歩き方から細かな仕草に至るまで、丁寧に作り込まれた役作りが最高で、どうしようもなく可愛らしい。ゆるあにまるとか、すみっコぐらしとか、そういう癒やし系の動物キャラクターみたいな愛らしさ。特徴ありすぎるドアノックから、指折り数を数えて呼吸を整えてから入室する仕草が、本当に可愛くて大好き。

裁判の内容は、シビアな現代社会の問題を映し出しながら、なんともハートウォーミングな着地で、重苦しさがまったくない。ひらめいた瞬間風が吹き、大好きなクジラが跳ねるイメージが差し挟まれるのもお決まりで、来た来たー!となって楽しい。
ピントがずれていて常識ハズレのぶっ飛んだセリフを真顔で吐いちゃう彼女だけれど、裏表なく、あくまで自分自身でいることしかできないのは、決して障害でなく、それは魅力でしかない、と感じられてくる。
イ・ジュノはウ・ヨンウが好きである。事実ですか? 証人尋問のような愛のセリフに笑う。

韓国ドラマでいつも思うことだけれど、脇役の人たちがみな魅力的。いくつか箇条書きで書き出せるような「キャラ」設定にとどまらず、それぞれに意味深い人生を背負った「人間」像を描き出すことがとてもうまいと思う。
ヨンウを陥れようとする同期のライバル、腹黒策士くんさえもとても愛おしく思えてくる。観ている人はみんなそうだろうと思う。相手の弱点を探し、陥穽を掘ることで勝つという司法の世界で、そして弱肉強食の世の中で、生き残るための方法論なんだとよく理解できる。

 

自閉症の人は予期しなかったトラブルに非常に弱く、依頼人の交通事故を目の当たりにしたヨンウも、不安がコントロールできなくなりパニック状態に陥る。背中からギュッとヨンウを抱きしめて落ち着かせようとするジュノ。もっと強くと要求するヨンウ。体をギュッと締め付けることで、不安が落ち着き平常心を取り戻せるのだそうで、そのために体を包み込み締め付ける専用の『抱擁椅子』があるのだとか。
「その椅子は韓国でも買えますか?」と尋ねるヨンウ。「ウ弁護士には必要ないです。僕がその椅子になるので」と答えるジュノ。
様々なドラマを観てきたけど、自分史上最高にキュンとしたシーンだった。キュン爆死。もう木端微塵。
ギュッとしてくれる「椅子」、私もほしい…!

ヨンウみたいな明確な障害があるわけではないけれど、あらゆることに過敏で、精神がコントロールしづらく、安定を失いやすいのは全く私も同じで、ものすごく共感できる部分が多い。
良かれと思ってしたことで、周りを困らせてしまったり、シラケさせてしまったり、気まずい空気になったりすることが、どれだけあったでしょうか。私にとっては当たり前のことが、他の人にとってはあり得ないことだったり、びっくりすることだったり、笑い出してしまうようなことだったことが、どれだけあったでしょうか。ヨンウほどわかり易くなくても、その気まずさの本質は同じだもの。

オープニングのテーマ音楽もとっても良い! シンプルなメロディーで単調とも言えるような感じなのだけど、同じことの繰り返しを好み、複雑な駆け引きを知らないド直球な人柄そのものを表しているようで、ぴったり彼女に合っている。書類がちょっと曲がっていても真っ直ぐにしなければ気がすまない彼女が、音符をかわいく並べ直したみたい。
オープニング映像のクジラさんの形をした雲など、仏映画『アメリ』を彷彿とさせるところも。確かに同じ系統のかわいさがあるかな。

観終わってしまって、完全にロス状態。ロス加減も史上最高かも。続編に大いに期待。