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隕石の堆積場

歯科医のプロフィール

いつもの歯科医院に行くと、担当の先生が変わっていた。初めて見る歯科医は、還暦手前、白髪交じりで、ひどく痩せていた。顔には深い皺が刻まれて、年輪を感じさせる容貌ながら、どことなく頼り甲斐のない感じがした。

歯のチェックを一通り終えて、歯科医は私に手鏡を差し出し、私は自分の歯をそこに映して見る。思ったよりも白く綺麗だったけれど、左右の犬歯が本来の位置より内側に傾いてきていて、不自然な形だった。いつのまにかそうなってきて、気になっていた。
歯科医は、どこか気になるところがありますか?と訊く。私は、犬歯が内側に傾いている件を話す。

歯科医の表情が急に活き活きしてきたように思えた。釣り糸にやっと魚が喰い付いた、そんな感じ。歯科医は急に前のめりに、雪崩打つように話し始めた。声の温度も以前とまるで違う。
こういう治療法があります、ああいう方法も考えられます、お任せいただければあらゆる問題を包括的に解決するソリューションをご提案できます。プレゼンテーションのようになって、私は寝かされたまま、空中に映し出される書類をいくつもいくつも見せられた。

書類の中にこの歯科医のプロフィールもあり、それがとても砕けた内容で、心の中で笑う。歯科医師界のソル・ギョングという異名を取るそうだ。たしかに見た目はちょっと似ているかも。でも映画俳優に自分を喩えるか? 笑いをこらえるのに必死。
隣の診療台から、院長先生(この人が今までの担当医だった)が様子を見ていて、何やら冷やかしの声をかけた。まるでナンパをしている仲間を冷やかしているみたいに。

面白いけど、この先生はだめだな。思惑通り釣られてたまるか。治療を断って帰ろう。そう決めると余計に、必死に空回りしているソル・ギョング氏が可笑しくてたまらなくなる。
どうやって角が立たないように断るかを、頭の裏側であれこれ考えながらも。

エアコンの中の小鳥

朝起きると、リビングのエアコンが作動したままだった。おかしいなと思ってリモコンを探し、スイッチを切るけれど反応がない。リモコンの表示面が誤作動して数字の8が並んでいる。部屋の片隅を見上げると、エアコンのカバーが外れ、片側が引っかかって斜めにぶら下がっていた。中のフィルターも外れて床に落ちていた。緑色の作動中を示す小さな光が異彩を放つ。

何が起こったのか把握できずにいると、どこからか飼い猫のシルくんがやってきて、エアコンに向けて威嚇を始めた。カーテンレールの上に飛び乗り、エアコンに向けて激しく猫パンチを繰り出した。

エアコンの中から小さな悲鳴が聞こえる。ぶら下がった蓋を外すと、中にピンポン玉ほどの小さい子鳥が2羽、くちばしを必死に開いて助けを求めていた。ピーピーという音でしかないはずなのに、私の意識にはそれが、母を呼ぴ、助けを求める、明らかな「言語」として聞こえた。全身がソリッドな黄色の小鳥と黄緑色の小鳥。蛍光ペンの色みたいに、暗がりに震えていた。

シルくんがまた威嚇をするので、抱き上げて廊下に出した。今回はお前が悪いぞ、小鳥さんをいじめちゃだめでしょ。シルくんは不服そうに藻掻いた。

エアコンの内部から親鳥が姿を現した。室外機から入り込んだのか。親鳥は2羽の小鳥を救出しようとしているように見える。私は慌てて窓をガラッと開け、ここから外へ逃げな、と話しかけた。

その瞬間、親鳥は大きく羽を広げ、凝縮された羽音が破裂するように響いた。母鳥の広げた羽から、抜け落ちたいくつかの羽毛が舞ったように見えた。けれどそれは羽根ではなく、飛び立った小さな2羽の小鳥だった。母親を追って、窓の外へと飛び去っていく。ふんわりと舞うように、見えざる手で大切に守られているかのように。後光が差し、中世の宗教画のような一瞬。

庭の茂みから、同じような黄色と黄緑色の小鳥が数羽、シンクロして飛び立った。エアコンにいた小鳥より一回り大きい、兄弟のように見えた。一瞬、兄弟鳥たちと目が合った気がした。彼らの目はアーモンドのような形で、深緑色の美しい隕石が嵌め込まれたように、妖しく輝いた。
鳥たちは、ブルーグレイの夜明けに溶けて消えた。元気でね。見送った私の声は濡れて滲んでいた。

ーーー
目覚めると、窓の外に、鳥のさえずりが賑やかに響いていた。

黄色い水玉模様の水晶

大切にしている水晶玉がある。手のひらに収まるくらいの大きさで、ほぼ透明なクリスタルだけれど、ところどころ黄色い水玉模様のようになっていて、シトリンが混じっているようだなと思った。内部には白く濁ったインクルージョンがたくさんあり、不透明な部分が多い。握るとちょうど誂えたように自分の手に馴染み、体の一部のように感じる瞬間さえある。

私はその玉を肌身離さず、バッグに入れて持ち歩いていた。繁華街、かつてCプラザという建物があった付近の路地で、その水晶玉をバッグから出して手にとった。
なぜか玉は少しだけ弾力があって、ゴムの玉のような感触があった。薄暗い路地で、黄色い水玉模様もくすんで映った。石の元気がないみたいだ。なぜだろう。触っていると、ますます水晶玉はブヨブヨとしてきた。内部の濁っていた部分がだんだん透明になってきて、氷が溶けてきたみたいに思えた。

水晶玉は、プツンという聞き取れないほどの小さな音を立てて、崩壊した。水風船が割れたみたいに、中の水が溢れそうになった。私は慌てて手のひらでそれを掬うように受け止めた。
よく見ると、黄色い水玉の部分も小さな水風船でできていて、外の大きな水風船に幾つもの黄色い水風船が内包されている形だった。黄色い水風船は破裂はせず、中の水はいつの間にか自然に排出されて、小さくしぼんでいた。黄色い風船の一つには、黒いマジックインキで見知らぬ名前が書かれている。子供の書いた字のように見えた。どこかの小学校から盗まれたものみたいに。

高次のエネルギーを媒介する交信機のようにすら感じ、信頼し愛していた水晶玉が、とたんに胡散臭いものだったように感じられ、激しく戸惑う。その石に裏切られたというよりは、自分自身に裏切られたような心持ち。体幹が冷たく痺れるような感覚。

万国旗のような洗濯物

真っ暗な闇の中に立ち尽くしている。重く、粘り気のある闇だった。自宅の前の道路にいるようだ。ようやく闇の中にぼんやりと見慣れた壁と窓、屋根を見上げることができた。
私はこの世界に存在することを心底嫌がっている。もう嫌だ、どこか別の世界へ旅立ちたいと、抑えても湧き上がる思いを牛のように、長いこと奥歯で反芻していた。

庭を、父が歩き回るのが、闇の中に薄っすらと浮かび上がって見える。用もないのに、一日に何歩歩くと自分で決めたノルマを消化するためだけに、ぶつぶつと数を数えながら歩き回る。(現実にしていることと全く同じだった)
父とはまるっきり違う次元に存在していて、手を伸ばしてもすり抜けてしまい、触れ合うことは決してないのだと直感的に知る。

ふと、空っぽのガレージの、屋根を支えている支柱にぶつかりそうになる。真っ黒な闇の中に聳え立つ、闇よりもっと真っ黒な支柱が、突然私に殴りかかってくるように感じた。それは支柱が動いているのではなく、私のほうが空中を浮遊しているのだと気づくのに時間がかかった。ホパリングする、無色透明の雲のようなものに乗っているようで、雲が不規則に左右に揺さぶられるたびに、黒い支柱が目の前を行ったり来たりする。

意を決して、瞳を閉じる。雲が私をどこかへ運んでいく。その上に寝そべった形で、瞼の裏の闇を見つめた。雲は激しく上下したり、スピードを出したり緩めたり、気儘に動き続けた。途中で闇を抜け、なんとも言葉に出来ないような光、多様な色彩と密度の中を進んでいった。瞼の裏にその光を感じていたけれど、怖くて目を開けられない。

どこかへ着地した。懐かしいようなくすぐったいような感覚をもたらす柔らかな陽射しが、瞼の血管を透かして、ピンク色に輝いた。目を開けると、そこはやはり、自宅の庭だった。芝生状の緑の上に寝転がっている。燦く陽光に、世界は今にも歌いだしそうだ。
万国旗のように賑やかに、色とりどりの洗濯物が干されている。何十着、何百着とも思えるほどの大量の洗濯物が、優しい風に揺れている。中に、見覚えのある黄色いタオルがあった。クマのアップリケが付いている。見回すと、色違いの白いタオルもあった。そんなタオルは記憶に無いのに、なぜ見覚えがあるのだろう? 不思議に切なく、息苦しく、心が締め付けられるような郷愁を感じる。私は起き上がり、洗濯物を掻き分けて、母を探した。

母は、縁側に座って洗濯物を畳んでいた。図体ばかり大きくなった私を受け容れてくれないのではないかと、少し心配だった。私は涙声で母を呼び、母はその様子に少し驚いたようだったけれど、すぐに平素の物腰に戻った。私は大人の身体のままで、心は子供に還っていた。大人の身体がとても煩わしく感じた。日なたに干した洗濯物の温かな匂いが漂っていた。

 

無に充ちる

すでに卒業したはずの高校に、また通っている。カレンダーを見ると11月で、まだ卒業には少しある。あと何日我慢すればここから自由になるだろうかと、数えることだけが生きがいとなっている。
この状態を、終わりにできるのだと突然気づく。

この現実は自分の描いているただの幻で、自分の意志でどうにでも形作ることができるのだと、閃きが降りてくる。粘土を捏ねるようにして現実を塑造する。きらきらと瞬くような天啓にも似た直感。
それならば、いますぐに通うのを終わりにしてしまおうと思う。親に電話一本かけてもらって今すぐ卒業しますと伝えてもらおう、いやそれすら必要ない、自分で決めて自分で電話すればいいだけだ。
そんなにも “お手軽” なことだったなんて!

すぐにでもやめられることに自分からしがみつき、ここから出られないと嘆いていた。夢の中でも夢を見て、繰り返し繰り返し、無限に増殖する悪夢の中で、幾度となく高校に通わなくてはならなかった。それなのに。
外界の全ては幻で、何もかもは本当には存在しない。突然具体性を帯びて感じられる。
途端に、世界が白く充ちて、その直後に暗転した。

世界は無に充ちていた。他者はひとりも存在せず、あらゆる過去の記憶も、すべて虚実だっただけでなく、そもそも何ひとつ存在していなかった。突風に霧が搔き消されるように、視界のすべてが消えた。
突如として、絶対的な闇のなかに閉じ込められた。そこには光のかけらもない。恐怖に叫びを上げた。
自分の叫ぶ声で目覚めた。

ーーー
何度も高校に通わなくてはいけない夢を、数知れず見てきた。それほど強かった嫌悪感なのか、やり残した感が強いのか。
父への反発を、学力や受験テクニック至上主義への嫌悪感にそのまま重ねてしまっていた。それが社会そのものへの恐怖にまで育ち、すべてを覆い尽くした。その萌芽に位置しているからかもしれない。