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基礎代謝 = 魂が呼吸するために最低限必要な心の活動

交換日記

黒い表紙の分厚いノートが送られてきた。ベルベットのような手触りの黒の表紙に、黒のゴムがかけられた、B5サイズ程の立派なノートだった。それは、Y君と私の間でやり取りされている交換日記のようなものだった。
ノートはすでに厚みの半分ほどまで、ぎっしりと文字で埋められていた。パラパラとめくってみる。踊りだしそうな躍動感のある文字だったり、神経質な細かい文字だったり、酔っ払って書いたような罫線をはみ出した文字だったり、いろいろな筆跡がそこにあった。しかしそれは全てがY君の書いた文字で、私の書いた文字はどこにも見当たらなかった。


なにか返答を書いて送り返さないといけない。けれど私には書きたいことがなにもなかった。Y君と共有できそうな体験がひとつも思い当たらない。
送り返さないで、このまま連絡を絶ってしまおうか。そうすれば楽かもしれないけれど、どこかで罪悪感が小さく叫んでいる。私は悪者として誰かの記憶に残りたくなかった。それでもY君の気持ちは私にとってとても負担に感じられるもので、無駄な期待をさせるほうが罪な気もした。いずれにせよ、自分の狡さに直面させられる。


私は黒いベルベットのノートをボストンバッグにしまった。太くて厳ついファスナーは思いのほか大きな音を立てて唸り、バッグの口を几帳面に閉ざした。
私の地味で古臭いボストンバッグの隣に、友人Sのバッグが並んで置かれていたはずなのに、いつの間にかなくなっている。Sのバッグは黒を基調としてところどころに鮮やかなフューシャピンクのラインが入っている、スポーティなスニーカーを思わせるデザインだった。
あのバッグはどうしたの? 私が尋ねると、宿泊料の代わりに物納するようなシステムがあって、既にあのバッグはその支払いのために手放したのだと言う。そうすれば、次々に新しいバッグに乗り換えることができるのだそうだ。
そんなシステムがあるのか。何も知らなかった世間知らずな自分が恥ずかしくなった。けれど私には、そんなふうに鞄を乗り換えて生きることはとてもできそうにない気がした。


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バッグも男性も次々と乗り換えることなどできない不器用さ。スマートに生きられない自分の格好悪さを憂える、社会基準の目線。
アルファベットで表記している登場人物は、全て実在する人で、時折有名人著名人なども。全く脈絡のないところでその人が出てくるのが本当に不思議。

 

電脳銀河に融ける

高卒認定試験を受ければ、高校に通わなくてもいいんじゃないか? そんな考えが突然湧いてきて、私はまるで天啓でも受けたように厳かな気持ちになった。なぜ今までそれに気づかなかったのだろう。すごいことに気がついてしまった!


ターコイズブルーiMacを起動した。すると丸っこい形でスケルトンの、見慣れたはずのiMacも今までとどこかが違う気がした。四角い画面のなかに、macOSという起動画面の文字に、無限の奥行きを感じた。このなかにまったく新しい宇宙がある。


高卒認定試験について調べようとする。新しい宇宙を内包したiMacには、本来はついていないはずのトラックパッドがついていて、非常に感度も良かった。指だけで思いのままにカーソルを動かせる。いや、私の思いの数段上を行く、素晴らしい動きをトラックパッド自身の判断で行っているように思えた。
何もかもが私の願いの数段上を行く、新たな世界に検索をかける。体ごとこの画面に吸い込まれ、0と1だけのデジタル信号に分解されて、完全に自由な銀河に融けていく。そんなイメージが私を酔わせた。


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目覚めて、自分が高卒認定試験など受けなかったこと、普通に我慢して高校に通い卒業したことを思い出して、一瞬どちらが現実だったかわからなくなるくらい、夢の中の感覚がリアルだった。

 

闇に沈みゆく岩

歯科医に行く時間が迫っていた。3時20分の予約で、もう間に合いそうもない。鉛のような脚と心を奮い立たせて、私はようやく歯科医院まで辿り着いた。
いつものように受付を済ませ、いつものように待たされる。一秒一秒が身体に食い込むように通過していく。なんでもないはずのそんな時間を、判決を待つ被告人のように味わい尽くす。


ようやく呼ばれて、診察台の上でまた待つ。歯の治療が怖いわけではない。それは恐怖とは違う、嫌悪感とも違う、あえて言うなら「違和感」を百万倍くらいに拡大させた感情。外の世界と接するときに必ず去来するそれは、私の生命力を最も浪費させるものだった。
歯科医がやってきて、簡単に口の中をチェックする。数十秒の沈黙の後、治療は次回からしますので予約をとってください。ほんの五分ほどで待合室に返された。
苦しみ抜いてようやくやってきて、耐えに耐えていたのに、また次回同じことを繰り返せと言われ、私は怒りを感じることも出来ず、湖に沈んでいく岩のように無力だった。


次の瞬間、私は古びた映画の撮影場のような場所に居た。木造の建物の中は柱や梁などがむき出しになっていて、何とも殺風景だった。撮影に使われるような衣装が雑然と並び、小道具類が床の上に散らかっていた。窓がなく、内部はとても暗く、私はその中を手探りで進んでいた。何人かのスタッフの顔が、ぶら下がった小さなライトに照らされていた。けれど誰も私のことを知らなかったし、私も彼らを知らなかった。
突然恐ろしくなって、自分の呼吸音だけが聞こえる闇の中を、必死に出口へと向かった。


なんとか外に出ると、既に真夜中だった。建物の中と何ら変わらない黒い闇のなかを、家へと歩いた。太い道路を渡ろうとするけれど、車がひっきりなしにやって来る。銀色のヘッドライトが冷たい秩序を保って流れていく。この暗さでは歩行者は目に映らないに違いない。私は諦めて迂回をすることにした。


空に月もなく、星もない。夜が呼吸をするたびにひとつひとつ吸い込んでいったかのように。
人けの全くない住宅街を一人歩く。家々は眠りについた獣のように静かだった。世界中に人間は私一人だけのような気がする。家へ帰っても、どこへ行っても、この無謬の闇のなかに閉じ込められたまま。
窒息しそうに息苦しく、喉元に手をやった。


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心の状態が悪く、外に一歩出ることも難しかった頃に、歯科医に通わなければならないのは本当に辛いことだった。今でも完全に辛くなくなったわけではないけれど、多少楽にはなった。
その頃の記憶がそのまま再生されたような内容。繰り返し夢に浮上させることで、無意識に刻み込まれたものが解放されていくのだろうか。

 

母と娘

そういえば、ネット通販で注文したものが届いていない気がする。期日指定で届くはずになっていたのだけれど、いつだっけ? もうとっくに予定の日は過ぎているのでは? 急にそのことが気になった私は、なぜか近所のIさんの家に確認に行った。
角を曲がり、もうひとつ角を曲がると、白い家が見えてくる。Iさんの家のインターホンを鳴らしたが、残念ながら留守だった。不機嫌そうな冬の風が気まぐれに頬を刺す。
同じ角を戻り、もうひとつ角を戻ると、全く見覚えのない寂れた商店街へ出た。小さな店舗が連なっているけれど、人通りはまったくなく閑散としていて、店の中もがらんとして何を売っているのやらさっぱりわからない店ばかり。


そのうちの一つで、店番をしている三十代くらいの女性と、その子供が二人いた。小さい弟のほうが、私が通り過ぎると後を付いてきた。私が立ち止まると、その子も立ち止まる。私が振り返ると、その子ももじもじとして明後日の方向を見ている。母親の店に立ち寄って欲しいのだろうか?
私は声をかけた。ママのところへ帰りな。おばちゃんはお店には行かないよ。自分のことを自然におばちゃんと言ったことに少し驚いた。十分おばちゃんな歳だけれど、普段そう呼ばれることもないし、自分のことをそう思ってもいなかったはずなのに。
子供は意味ありげな目をして、遠ざかる私をじっと見ていた。


家に帰ると、注文したものが届いていた。他にも沢山のダンボールやリボンの掛けられたプレゼントが、所狭しと並んでいた。クリスマスツリーとその根本に置かれたプレゼントの数々を思い起こさせる。
私が注文したのは、初心者用のアロマオイルのセットだった。母の誕生日のプレゼント。物ぐさな母のために、簡単な道具も揃ったセット品を買ったはずなのだけれど、何本かの精油だけで道具類は何も入っていなかった。仕方なく、私は母に使い方を説明した。空いたプラスチックの容器、ヨーグルトやプリンの容器なんかをとっておいて、そこに精油を垂らして香りを楽しんだら、その容器ごと捨ててしまえば簡単だよ。面倒くさがりの母が器具をまめに洗ったりすることはありえないだろうから。


私と母の他にも、沢山の母娘が居た。届いた荷物の山はみな、娘から母へのプレゼントだった。そしてそれぞれに感動的なシーンが繰り広げられていた。
私の母も、思いのほかアロマオイルを喜んでくれたようだった。中身など何でも構わないのかもしれない。昔、バラ園に行ったことがあったね。いい香りのバラがあったね。母は懐かしそうにそう言った。
バラの咲き乱れる光景が脳裏に鮮やかに蘇った。5月のきらめくような陽光と、痛いほどの新緑と、目深にかぶったつば広帽子の下の笑顔と。
また行ってみようか? そうだね……。私はそれが母と訪れる最後のバラ園になるような気がして、少し怖くなった。

 

巨大な弓のような虹

南の島のリゾートらしき場所。
高層階にある、室内の温水のプール、あるいはお風呂なのかわからないが、私はそのお湯に浸かりながら窓の外を見ていた。一面のガラス窓の外には、遥か見渡す限りのブルーラグーン。その手前には様々な形のプールや遊園地のアトラクションのようなものを見下ろすことが出来た。鮮やかな青一色の世界は、ラッセンの絵画のよう。


気づくとその絵画に、虹がじわりと浮かび上がるように描き足された。水平線と、遠くに浮かぶ島とに橋を架けるように。
その直後、もうひとつの虹が、縦の方向に架けられた。天と地に架ける橋のように。巨大な弓のように。最初の虹よりも、二回りほど大きく太い虹だった。虹の上部は眩しすぎて見ることは出来ないが、天穹を突き刺して、優に宇宙へと到達していたはずだ。
二つの虹が垂直に交わった部分は、十四色の光が滲んで溶け合い、得も言われぬ美しさだった。それは白でもなく金でもなく、原始に初めて宇宙に誕生した光があるなら、こんな色をしているだろうと思われる、名付けることのできない色彩だった。


パートナーらしき人が私を呼びに来て、早くあがるようにと促したけれど、私はその場を動きたくなかった。窓の外の世界、青の絵画の世界に自らが入っていったら、何かが壊れてしまうような、何かを見失ってしまうような気がした。その完全なる世界が幻だったのだと気づき、幻滅したくなかったのかもしれない。
パートナーはそれを察したのか、私が安心できるような言葉を話しかけた。その言葉が何だったか思い出すことができない。私は心が一気にほどけ、安心したのと同時に、涙が溢れてくるのを感じたような気がする。その辺りの記憶もなぜか曖昧だ。


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素晴らしいものを前にして怖くなり、足がすくむという感情に近い。それを認めて自分を許して良いということを示してくれているのだろうか。