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Dépôt de Météorites

記憶を閉じ込める引き出し

机の引き出しに、えんじ色の封筒が入っていた。周囲に細やかな金のエンボス加工がされている、綺麗な封筒だった。見覚えがないので、怪訝な気持ちで手にとった。宛先は間違いなく私だった。


中の便箋には、先日はレストランに来てくれてありがとう、あまり会う機会もなかったけどみんなあまり変わらないね……といった内容が書かれていた。私の本名でなく、ペンネームかハンドルネームのようなものが記されていたけれど、私はそんな別名を使った覚えは一度もなかった。便箋と共に、レストランの詳細が印刷された紙も入っていた。2019年10月オープン。


内容から察するに、手紙を書いたのは学生時代のクラスメイトの男性で、私を含めた数人の女子が、彼が経営を始めたばかりのレストランで、年に一度の定例の女子会を開いた。その礼状ということらしかった。
そこで会ったとされている数名の女子は、たしかに私が仲良くしていた友人たちだったし、卒業後にも何度か会ったことのある人もいるけれど、年に一度の女子会など開いたことはなかったはずだ。
そして、手紙の送り主の男子も、いくら考えても全く思い出せなかった。
狐につままれるというのはまさにこのことだと、はじめは他人事のように思った。次第に、考えれば考えるほど、薄気味悪くなってきた。私はなにか大切な記憶を失っているのか、脳の機能がどうにかしてしまったのか。


とりあえず、机の引き出しにえんじ色の封筒をもう一度しまってみよう。
引き出しを開けると、そこには何十本ものボールペンが折り重なっていて、それらもほとんど見覚えがないものの気がした。ほぼ全て黒の事務的な油性ボールペンだった。各社の油性ボールペンを網羅しているようだ。私はいつの間にか、ボールペンの書き味チェックに没頭し始めた。やはりジェットストリームは書きやすいよな、でも0.5は少し硬い書き味かな?
インクが切れていて、かすれてしまい使い物にならないペンがかなりの割合で混じっていた。というより、まともに使えるものは数少なく、特に書き味の優れたものは何本もなかった。
なぜこんな使えないボールペンばかりが私の引き出しに入っているのか、やはり気味が悪くなった。


父がやってきて、ペンを貸してくれと言う。貸したらきっと返ってくることはないだろうから、インクの切れかけたやつを渡せばいいと密かに思った。その心を読んだかのように、私が一番気に入った白い軸のボールペンを試し書きした父は、これがいい、と言って勝手に持っていってしまった。
私は引き出しの中に、えんじ色の封筒も割り切れない気持ちも書けないボールペンもすべて一緒に押し込めた。そうすればすべてが記憶から消えてしまうだろう。

 

汚物を美しい箱に入れる

こんな恋愛ドラマを観た。

彼女は、彼の排泄物を自分の服になすりつけていた。アイボリー色のコートから始まり、全身になすりつけ終わって、彼女はようやく安心したというように、仄かな微笑みを口元に浮かべた。
それは、彼女なりの愛情の表現だった。彼の中から生じた穢れを、身代わりに受け止める覚悟を示す行為だった。彼と友人たちはそのにおいに気付いて、俄にざわめき立つ。


はじめは彼女のやり方に激しい嫌悪感を示す彼だったが、心の裡を知るとともに、彼女の愛はやがて彼へと届き始めた。彼女はいつも言葉少なに、白く煌く満ちた月のような瞳で彼を見つめていた。
彼女は彼の汚物を美しい漆塗りの箱に入れていた。真赤な組紐を大切に結び、愛おしそうにその箱を手のひらで撫でていた。

 

卑屈になる覚悟をする

熊を飼うことにした。
誘惑に抵抗することが出来なくて、とうとう熊を家へ連れてきた。黒い大きな体を揺らして、熊は私の与えたごはんを美味しそうに食べた。熊はとても大きいので、居間に彼がいると家が狭くなったような錯覚に陥った。


猫のシルくんは、熊を見てギョッとした顔をして、へっぴり腰で逃げ出した。部屋の高い位置に上ったきり、降りてこなくなった。
熊は非常におとなしく、聞き分けも良く、まるでぬいぐるみの中に人が入っているかのようだった。けれど彼は自分の目線から上のものは全く視界に入らない様子で、高い位置に猫がいることに全く気づかない。そのために何の気なしにシルくんの間近にまで寄っていくのだった。シルくんは怯えて固まってしまった。
くまさんはちっとも怖くないよ、ほらこんなにいい子なんだよ。私は必死に諭したが、シルくんはパニックになり私の言葉が耳に入らないようだった。


私は、熊と猫は同居が難しいことに思い至らなかった、自分の浅慮を悔いた。シルくんは降りてこられなくなり、ご飯も食べられないしトイレにも行けない。私は頭を抱えた。
仕方なく、母に助けを求めた。このままじゃシルくんが死んじゃうよ! 涙を流して母に訴えたものの、馬耳東風。お腹が空いたらそのうち降りてくるでしょ、猫はひとりでいるのが好きなのよ。私は跪いて母の脚にすがったが、それは無意味なことだった。


そして、私は虎を飼うことにした。
虎は熊のようにおとなしくはなかった。彼は大勢のチンピラを従える親分のように振る舞った。言葉遣いも荒く、態度も大きかった。飯はまだか。早くよこせこの野郎。
虎は金属でできた武器のようなものを持っていた。一見農機具のようでもあり、今までに見たどんな武器とも異なるものだったのでなんとも形容し難い。1メートルほどの長さの、銀色に光る武器をちらつかせ、虎は威嚇を繰り返した。


熊は、虎を見るやいなや、巨体に似つかわしくない敏速な動きで逃げ出した。そして帰っては来なかった。
シルくんはどこに行ったのだろう。カーテンレールの上で小さくなっていたはずが見当たらない。普段お客さんが来た時のようにどこかへ身を隠したのだろうとは思うけれど、居場所を確認できないので心配になる。


虎がシルくんに危害を加えないように、私は甘い声を出して媚を売り、虎を懐柔しようとした。あなたがどんなに素晴らしいか知っているわ。どんなにかっこよくどんなに賢いことか。この世界に右に出るものは居ないわね。虎は鼻の穴を膨らませて得意満面だ。あなたは誰よりも強いのだから、小さな猫なんか相手にするはずはないわね。猫なんかを痛めつけても何の自慢にもならない。そうでしょう? 虎は何も言わないが、悪い気はしないようで、ゴロゴロと喉を鳴らしているようにも思えた。むしろ猫なんかを相手にしたことが知れ渡れば、看板に傷がつくに違いないわ。私はそう畳み掛けた。


この調子だ。愛しいシルくんのためならどんなに卑屈にもなろう。家族のために理不尽な取引先に頭を下げるお父さんのように、若しくは主君にかしずくふりをして掌で転がそうとする腹心のように、私は虎をおだてることに命を懸ける覚悟だった。

 

スロットマシンで高得点が出る

気づくと、隣にK君が寝ていた。なぜだかはわからないが、他にも何人かが私の部屋に散らばって寝転がっていた気がする。
夜中に起き上がった彼は、枕元に置いてある私の化粧品の瓶を幾つか倒してしまった。瓶と瓶がぶつかり、冷たく尖った音が響いた。彼は、しまった!というわかりやすい表情をして、瓶を一本ずつ、音を立てないようにそっと元に戻した。私は眠ったふりをして、その様子を薄目を開けて見ていた。わけもなく愛しさが込み上げて、涙が滲むのを感じた。


朝になると、K君には妻と三人の子供がいることがわかった。妻と子供達とともにスーパーマーケットで買い物をする彼の映像が、脳裏に再生されたからだ。それが現実なのか妄想なのかわからなかった。
私はその映像を強く念じることで、ノートパソコンに保存した。他にも、心の中の有象無象を映像として、また言葉として、数限りなく保存していた。そうすることで、ノートパソコンは私の脳細胞のすべてのシナプスを流れるすべてのシグナルを記録した、いわばコピーと化した。


ビビットなピンク色のスニーカーを履いた私は、高校の古びた校舎に入っていった。脇にノートパソコンを抱えている。
教室にたどり着くと、同級生たち、特に男子学生が、心なしか白い目で私を見ているように思えた。それが私に内在する無価値感を強く刺激した。冷ややかな悪意が、目に見えない赤外線のように張り巡らされた空間に感じられた。
パソコンに保存したK君の映像をもし見られてしまったら、身の程を知らない勘違い女として嘲笑されるだろう。恐れに身震いがした。
ふと気づくと、ノートパソコンがない。誰かが持っていって、ネットに拡散してしまったら? 慌てふためいて周囲を探したが、見つからなかった。教室の窓ガラスを通過する陽光が屈折し、私へと差し込む際にもう一度屈折した。その角度に油断した私は、心の裡をすべて白日のもとに晒されてしまった。
私はしばし絶望し、その後で腹をくくった。最悪の場合、四階建ての校舎の窓から身を投げてしまえば良いのだ。


カジノのスロットマシンのようなものをいじりながら、竹中直人に似た男子学生が声を掛けてきた。これ見てみなよ。スロットマシンには回転する部分がたくさんあって、それぞれに細かい数字が表示されていた。独創性とか、芸術性とか、色々な項目ごとに点数が出るようだ。
あんたのパソコンの数値はなかなかだよ、と竹中直人似の彼は言った。何の項目だかは教えてくれなかったけれど、かなりいい得点が出たと言う。私のノートパソコンとスロットマシンをつないでいた太いケーブルを抜きながら、彼はにやっと笑って私を見た。その笑みは、賛辞と受け取っても良いもののような気がした。


何か対価を払ってもらわないとね。彼がそう言うので、私は下駄箱からピンクのスニーカーを持ってきて、これを提供しますから、と言って突き出した。ああ、これを世界に提供するとは見上げたもんだ。みんなが喜ぶだろうね。
そんなにこのスニーカーに価値があるの? 一体この世界の価値基準とは何? でもそんなことはどうでも良かった。私は返してもらったノートパソコンを抱きしめながら、上履きのまま校舎から駆け出していった。もう二度と登校するつもりはなかった。

 

背徳の香り

こんな映画を観た。
フランス人ハーフの青年が、海辺の街を訪れるところから物語は始まる。彼の父はフランス人、母は日本人で、母は若くして彼の地で亡くなった。青年は二十歳くらい、幼少期を除けば初めての訪日だった。日本には、母の姉に当たる伯母と祖父母がいて、彼らに会いに来たのだった。
青年は、伯母と対面するやいなや、電撃的な恋に落ちる。


舞台は昭和初期くらいか、伯母はキリッとした和服姿で、知的かつ妖艶な人だった。伯母には夫がいたが関係は最悪で、一人娘のために、かろうじて仮面夫婦を演じていた。青年の若く純粋な心は制御不能で、一途な想いを駆け引きなしに、直球で投げつけてくる。青年の艶を湛えた細い金髪が、鋭利なまなざしの上に落ちかかる様は、この世のものと思えないほど美しかった。
伯母は、理性と衝動の間で身悶える。苦悶の末に理性が勝利し、伯母は青年の想いを突っぱねることに何とか成功する。畳の敷かれた寝室で、伯母は青年をきっぱりと拒絶した。


そこからは、青年の復讐物語だ。穢れを知らない一途な想いをへし折られた彼は、愛を憎しみへと変換することでなんとか生きようとする。
彼の復讐の矛先は、伯母の一人娘へと向かう。まだ世間を知らない若い娘は、従兄の手によって簡単に籠絡された。娘は青年に恋をし、青年は彼女を落とすことに苦もなく成功した。
伯母にこの事実を知らしめること、そして娘をこれ以上なく冷酷に捨て去ること、これで彼の復讐は完了する。その予感の中で、彼はひとり、笑いながら涙を流した。


嵐が丘』のヒースクリフを彷彿とさせるような復讐劇。谷崎潤一郎的な、やや倒錯した情熱、背徳の香り。想いの熱量が現実離れしていて、その魂が純粋すぎて、何もかもが強すぎて、クラクラと目眩がした。
この世界から目を醒ましたら、現実の日々があまりにも無味乾燥で、砂を噛むように感じてしまうような気がした。