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宇宙の朝

階段を、目を閉じて上っていく。闇の中を手探りで、ゆっくりと一段ずつを噛みしめる。上り切り、目を開くと、自分の部屋が整然とした美しいものに変わっていた。ベッドの向きが違い、鮮やかなフクシアピンク色でペイズリーのような模様が描かれた、真新しいカバーがかかっている。静謐とした空気の中、大きな花瓶に生けられた緑の葉たちが穏やかに呼吸していた。小さな白い花が一輪、葉陰に隠れて恥じらっているようだった。

他に余分なものは何一つなく、うんざりしていた参考書の類も何もなく、脱ぎ捨てた昨日の服もなかった。残った一合ほどの米が入った袋を小さく折りたたんだものが鞄に入っていたはずなのに、それも鞄ごと消えていた。

これは全く新しい空間、新しい世界であり、空気の質、分子構造からして異なる世界。私から何物も奪わない、私を大きな手のひらの中で守ってくれる空間なのだということがわかった。私はもう大丈夫だ、すべてがあるべき場所にあり、すべてはうまく行くのだと言うことにも、自然なかたちで理解がもたらされる。深い安堵が身体の中でとろけていく。

窓の外から、どこか厳かな印象の陽光が差し込む。これが宇宙の朝というものだ。そんな気がした。空中に浮遊する、到底数えきれない物質のひとつひとつに、ドミノ倒しのようにスイッチが入っていく。それでいながら、空気は微動だにせず、絶対零度に凍りついているようでもある。

 

ブルージーな煮豆

夢の中で、こんなドラマを観た。国内の少し古いドラマのテイストだった。
主人公の若い女性が、書店でベストセラーを見繕う。彼女は自分の少々風変わりな個性を封印して、社会に認められる存在になろうと思い詰めている。いま世間で流行っているもの、世間が価値あるとするものが彼女にとっての価値あるものだった。
売れている本を手に取り、ページをめくる。チャート式の図解のようなページばかりで、本文はわずか、キャッチーな見出し文が踊り、一般的な読者層にどこまでも媚びた作りだった。

直情的な彼女は突然、何もかもが馬鹿馬鹿しくなる。本は世間に媚び、自分も世間に媚びている。世間は一体何に媚びるのか。世間も世間に媚びているだけじゃないか、という理解が、彼女の張り詰めた糸をぷつりと切った。

彼女は何冊か買うつもりで抱えていた本を、元あった場所に戻しに走る。途中で、背の高い紳士とぶつかる。紳士は一目でそれとわかるような超一流のスーツを着込み、サイボーグのような肉体をその中に隠していた。尖った厳つい造作に、いかにも柔和な笑みを浮かべた。
彼女は、この紳士が世界の主なのだと直観する。この書店チェーンのオーナーかもしれないし、今抱えている本の出版社社長かもしれない。表向きの肩書きはどうでもよかった。私は世界の「主」に今睨まれ、目をつけられた。彼女の胸は早鐘のように鳴った。

慌てて床に落とした本を回収すると、紳士に会釈してまた彼女は走り出す。振り返ることはできない。本が並んでいた場所にたどり着き、平積みの一番上に戻す。その時、抱えていたお菓子の包みも一緒にぶちまけてしまう。透明のケースに入ったケーキや、和菓子、いろいろな種類があった。
それを隣で見ていた、同年代の若い女性客。お菓子を拾い上げるのを手伝ってやる。同じものが二つずつあるんですね。女性客が話しかけてくる。そうなんです、姉が出張で家にいないのをうっかり忘れていて、姉の分も買ってしまったんです。その何気ない会話が、真の友情が芽生えるきっかけとなる出来事であるのは明白だった。

二人はそれらのケーキを一緒に食べた。暗がりに並んでいるベンチに腰掛け、テーブルの上に透明なケースに入ったお菓子が並ぶ。どれも形が崩れ、和菓子の上に振りかけられたきな粉がケースの中に散らばっていた。電燈の冷たい明かりがそれを照らしている。月はなく、とても暗い夜だった。

そのシーンを待っていたように、テーマの音楽が流れる。ブルージーでものすごくかっこいい曲。その歌詞は、水を鍋に入れ火にかける、豆を煮る、煮続けて豆は煮豆になる──そんな内容。曲調と歌詞のあまりの不一致に、思わず失笑する。でもその曲はまちがいなくかっこいいのだ。
夢の中ではメロディも歌詞の内容も完全だったのに、目覚めると殆ど忘れていた。

 

黄金の部屋

陽だまりで、愛犬のネルと戯れていた。南の空低く太陽が横切り、ガラス越しに長い影が伸びている。板張りの床の上、影が踊るのを見つめる。ポメラニアンのネルはベージュ色の毛色だったけれど、陽光に細くふわふわした毛の一本一本が煌めいて、黄金でできた極細の糸のようだった。

黒曜石のような瞳が見つめている。マミー、何か忘れていませんか? そんな訴えが意識に直接聞こえてくる。そうだった、ご飯を出すのを長い間忘れていた。どれほど長い間忘れていたんだろう。納戸部屋に入り、奥の方からドッグフードの袋を引っ張り出した。
かつてネルが愛用していた、懐かしいステンレスの器にフードを出してやると、喜んで顔を突っ込んだ。夢中で食べているネルの被毛が、体が揺れるたびにまた光の中で輝く。ご飯をあげたのは何年ぶりだろうと、ふと考えた。ネルが天国に召されてもう数年経つことに、はたと気づいた。

この陽だまりの部屋は天国なの? 妄想の世界なの? ここを離れ、現実に戻らなければならないのだろうか。果たして現実とはなんだったんだろう。次第に曖昧になり、自分がどこに居るのかわからなくなった。現実というものが基軸を失い、柔らかな粘土で形成されたようなものに感じられる。指一本で捻じ曲げられる、可塑性の高いただの物質。

今居るこの部屋が本物の真実であり、日々の現実の方こそがうたかたの夢であることに、深く気づいた。心の奥に静かな雷槌が走った。毎朝目覚めると、かりそめの世界へと出勤していくのだ。歪んだ眼鏡をかけながら。

 

深夜の壁掛け時計とブルーベリー

突然、母に起こされる。3時半だよ! 遠慮のない大声に目が醒める。幼い子供のような、思慮の痕跡が全く感じられない率直な声だった。母からそんな声が聞かれることは初めてのような気がした。
深夜の3時半。外界は静かな闇に覆われている。引き替えに部屋の中は、母の賑やか過ぎる振る舞いで、いつものLEDライトの光量が二割増しに感じられた。
冬の夜中に窓をガラガラと開け、縁側へと出て、なぜか母は爪を切り始めた。突然ケタケタと笑い出す。正気を失ってしまったとしか思えない。私は表情を失ったままで凍りつき、母の様子をただ見つめていることしかできなかった。

壁の時計を見る。本当に3時30分を指しているだろうか。これはきっと現実ではないだろう。
時計の針は確かに3時30分を示す角度にあった。しかし、1から3までの数字だけが忽然と消えていた。4から12までの数字を見つめているうち、緑色の縁取りのある見慣れた壁掛け時計は、ぐにゃりと形を歪めていき、すべての角度も意味を失っていった。

庭にはブルーベリーの木があった。人間の背丈ほどの高さで、大きな実がたくさん生っている。通常なら1センチほどの実が、数センチの大きさに感じられて、小さな違和感を覚えた。実は確かにプルーベリー色はしていたけれど、不自然なほど透明感があり、内部から微かに発光しているようだった。

闇に目をこらすと、木の天辺のあたりに、膨らませた風船くらいの大きすぎる実が一つある。その実は少しずつ膨らんでいき、内部の圧が刻一刻と増していくのが克明に見て取れた。
そして想像の通りに破裂した。音はなかった。内部から無数の小さな実が現れて、弾け飛ぶわけでもなく、瞬時に木全体に拡散した。本来あるべき位置を本能的に知っていたのかと思うほど、何事もなかったような済ました顔をして、私たちはずっとここで生っていましたよと言わんばかりに、彼らは葉陰にじっと身を潜めていた。

 

ファミレス神天戸店

不思議なテレビCMが流れていた。何の宣伝かわからないけれど、車の運転席から見える光景を、ひたすら淡々と映し続けているものだった。赤信号で減速し、止まる。横断歩道を渡っていく子供たち。発進すると緑の並木道に差し掛かる。右折する際、待てども待てども対向車が途切れない。運転者の視線の先を延々と映し続けるだけなのに、なぜだか目が離せない。

私はいつの間にかその車の助手席に乗っている。運転しているのは父だった。現実には父は運転免許を持っていないので有り得ないこと。無言のまま、フロントガラス越しに移り変わっていく光景を、自分とは何の係わりもないスクリーンの中の映像を見るように、突き放しながらぼんやり見つめていた。見知らぬ街を通り抜け、家に向かっているのだけれど、いつまでたっても家の近辺に辿り着かず、聞いたこともない地名のなかを走り続けていた。

信号で止まった時、とあるファミレスの目の前だった。店の名前が目に飛び込んでくる。「神天戸店」と書かれている。その地名を見た瞬間、間違った道に迷い込んでいるということを、なぜか悟った。父は自分の過ちを決して認めず、自ら引き返すことのできない人だ。いつもはうるさいくらいに饒舌な父が、黙りこくっているのがその確かな証拠。

次の瞬間、私はファミレスの店内で、明るい窓際の席に腰掛けていた。信号待ちをして数珠繋ぎになっている車たちが、分厚いガラスの向こうによく見える。テーブルの向こうには、一人の少女が俯いていた。高校生くらいのその少女は、かつての自分自身だということがすぐにわかった。私たちは空っぽのテーブルを挟んで、ずっと押し黙ったままだった。

少女は俯いたままで、時折思い出したように窓の外を眺めた。ふてくされた態度は誰かを非難し責め立てたいからではなく、ただ自分自身に腹を立て、その怒りをどう処理していいかわからないからだった。そのことは手に取るようにわかる。
注文したはずの料理はいつまで待っても届かず、私たちは相変わらず、塵一つも置かれていない艶々に磨かれたテーブルを見つめながら、沈黙を噛みしめている。