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恐怖症

恐れを感じるのは、思考が、まだありもしないことを想像して過去をリプレイしてしまうから。
思考は元来自分のものじゃないのだから、全て水に流すように、体から流してしまおうと意図した。そうすると良いというアドバイスもあちこちで見受けられる。


そうしたら、逆に、恐れが増幅してどんどん増してくるのを確かに感じた。あることで身をもって体験し、強く実感した。なぜこんな事が起こるのかわからなかった。


感情がわき起こってしまったら、それは既に “思考” から離れて自分のものになってしまうのかもしれない。
感情は確かに自分自身のものだということなのか。
それを流してしまおうとするのは、自分に対する裏切りなのかもしれない。
切り捨てられた感情は、主体である私に対し、訴える声を強めてくる。


私の、あらゆるものに対する恐怖症。
ありもしないことを恐れて動けないことを自責していた。なんと愚かなのだろうと罵倒していた。
その恐怖に打ち勝って動き出せないから、何も変えられない。全てそういう私の責任で、私が悪い。
結局本音ではそう思っているのだ。今も。
自分を責めても何も変えられない、と頭でわかっていても、責めることもやめられない。それも私の罪だと。
その罪も許してやらなければいけない。ねばならない。ねばならない。そればかり。
もう疲れ果てた。


堂々巡りの全てが嫌になり、解決法もわからない。
そもそも解決しようとしていること、問題扱いしていることがそれを問題にしてしまっているのかもしれない。
もうこれでいい、どうでもいい、恐怖症のままでもいい、怖いなら立ち向かわずに逃げればいい、抵抗がなくなったならその時に行動すればいい、と開き直ったらどうなるのだろう。


恐怖は、安心や安全を強く望むから、バランスが傾いて外界に生じてしまうのだ。
私の一番の望みはなんだろうと考えてみた。それは、完全に守られて、完全に安心できることだった。
「安心」に強力に傾いていたから何もかもが反転し、「不安」ばかりになった。 


抵抗がなくなって自然に行動できる時が来るのを待つことは、自分を信じることでもある。