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隕石の堆積場

自分らしさという嘘

「自分らしさ」という言葉が、生理的に嫌いだった。
夢とか希望とか絆とか、手垢にまみれて偽善でしかなくなった言葉と同列で、もう既に意味を持たない、死んだ言葉。あるいは沢山の穢れを背負わされて、内部から崩壊した言葉。


自分らしく、私らしく、なんて言われるようになったのはいつの頃からだろう。それは一種のファッションで、何となくそれがカッコいいという共通の認識が社会に蔓延し始めた。


画一的ですべての人がそれに従わなければいけないという意識下の規範のようなものは、確かに薄れて多様化した部分もあるかもしれないけれど。価値観が多様化と言うより細分化したというのが正しいのかな。
幾つもの小さな集団に分散されたけれど、その集団の内部では、以前と変わらず画一的な価値観の押しつけと、そこからはみ出るものの容赦ない排除は続いている。自分らしさとは、そのたくさんある集団のうちどれに属するのか、その選択の言い訳でしかなくなった。


「〜〜系」といったようなカテゴライズは自分を守る盾のようなものとなり、それに属することで安心できる。反面でそこから排除されないように魂を売り渡していくことが必要なのは、以前と何ら変わっていない。より過酷になったのかもしれない。
集団の外、違う価値観を持つ異なる集団に対しては、まるで相手が存在していないかのように冷ややかに無視し、集団の中では互いにきつく縛り合い。それでいながら、仲間と全く同じであることも嫌がる。同じ服を着ていてかぶるのが嫌だとか、どうでもいいような瑣末で差別化しようとする。このことが以前からとても不思議だった。同調していながら差別化もされなくてはいけない。相反することを同時に求められる。


これらがあまりに馬鹿馬鹿しくて、どの集団にも属さないことを選択する。そうしたら、「どこにも属さないことを気取った人」というのが私のラベルとなり、カテゴライズされてしまう。まるで悪夢。


自分らしさというものを意識した途端、それは演じられるものとなる。私とはこういうものだと、社会に、また自分自身にアピールするためには、自分らしさを都合よく認識し、改造しなければならないから。それは既に自分らしさではなくなっているというパラドックス


自分らしさをどこまでも意識しないでいることが、いちばん自分らしさに近づく方法なのかも。自分のことを正しく知るということがいちばん難しいのでは? いっそ、知らなくたって良いのでは?
小さく閉ざされた、他所から入力されたことを整理して出力することしか出来ない思考には捉えきれないほど、複雑で、非論理的で、豊かなもの。それを簡単に知ろうとするのはおこがましいことなのではないだろうか。

 

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