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Dépôt de Météorites

外部ファースト

部屋に、首から上だけのマネキンが四体ほど置かれていた。カーテンレールの上の棚にマネキンの首が並び、それぞれにカツラをかぶっている。モーツァルト風だったり、ベートーベン風だったり、様々なカツラ。
私はなぜ自分の部屋にそんな物があるのか、首を傾げた。気味が悪いので、ゴミの回収日に出してしまおうと思い、こういうものはいつどうやって出せば良いのかを母に相談しに行こうとしたとき、捨ててはいけない理由を思い出してしまった。


家に知らないイタリア人が数人、出入りするようになってしばらく経っていた。彼らは何故か、朝だけ家にいる。私が目覚める頃にはいて、朝食をとり、いつの間にかいなくなる。三十代くらいの男性と、五十過ぎの女性、十歳ちょっとの女の子、この三人のことが多かった。年齢からも、お互いへの態度からも、家族ではないように思われた。
彼らは朝からパスタを食べ、ワイングラスでなにか飲んでいる。その傍らで小さくなって、私はいつも朝食をとった。学校へ行かなければならないので(私は高校生くらいだった)朝は慌ただしく、彼らの目を意識している余裕もあまりなかったけれど、それでも落ち着かず不快だった。
彼らのために、私は自室のベッドを明け渡さなければならなかった。私のベッドの隣にくっつけて彼らのベッドが一台運び込まれ、キングサイズになったベッドに、三人が川の字のように寝転がった。次第に私の部屋には彼らの持ち物が侵食し、マネキンとカツラもその一部だった。彼らは朝食のときによくそれをかぶっていた。


ある日、彼らのいない昼間に、私は自分のベッドをしみじみと見た。物には、その所有者の持つエッセンスのようなものが指紋の如く刻まれ、当人がいなくてもその気配を濃厚に醸し出すものだ。私のベッドからは私の気配は既になく、彼らの気配が色濃く滲み出ていた。微かなマットレスの凹凸の形も、見慣れないローズピンクのシーツとカバーも、彼らの波動を饒舌に物語っていた。
私は自分の来し方を振り返り、泣いたり笑ったり様々だった、これまでのすべての一日をこのベッドの上で閉じてきたこと、このベッドが私の人生の重みを受け止めてきたのだということに思い至り、我知らず涙が溢れた。その経験と宝を、まるごと赤の他人に奪われてしまったように感じた。


イタリア人は、多分私のピアノの先生の紹介で、家に来ることになったのだと思う。先生は昔イタリアに留学したことがあると言っていた。その人脈なのだろう。
母には、ピアノの先生のみならず、誰かに言われたことに後先考えず、二つ返事でOKを出す癖があった。完全な外部ファーストで、家庭の内部にどんな影響があるかなどは全く考慮せず、ただその場の善意でイエスと言ってしまうのだ。それは母が善良な人間である証明だったが、少なくとも私にとってはひどく悪い癖に感じられた。今回も、そうやって何も考えずイエスと答え、この現状がもたらされたのだろう。


翌朝、私が寝ていると、その部屋にイタリア人たちが入ってきた。私は目が覚めていたが、寝たふりをしていた。彼らは始め日本語で喋っていたが、途中から声を潜め、私の方をちらちらと見ながらイタリア語を喋り始めた。私に聞かれてはまずいことなのだろう。
その状況がとても屈辱的に思え、私は寝返りを打つふりをして、腕で顔を覆い隠した。涙が流れるのを隠すために。五十過ぎのイタリア女性が、私の様子に気づき、そっと私の腕をとって顔の上から外し、代わりに毛布を頭の上まで覆うようにかけてくれた。私を起こさないように細心の注意をはらい、優しさに満ちた行為だったことは感じ取れた。
毛布で覆われた顔は火照り、息苦しくなった。このまま呼吸が止まってしまいそうな恐怖に襲われた。私は毛布を跳ね除けて、部屋から駆け出していった。


あの人達を家から追い出して! 泣きじゃくりながら母に訴えた。
母はその朝はやく出勤しなければならなくて、私に構う暇はなく、そそくさと家を出ていった。私は彼らの朝食の支度もしなければならなくなった。彼らの食べていたパスタやら何やらも、うちで全部用意してあげていたことに気づいた。
気まずい空気の中、私はとりあえずトマトを切って、皿に乗せて出した。他に何を出したら良いかわからず冷蔵庫を開けると、がんもどきのような和惣菜が一つあるだけで、他に何もなかった。これを温めて出すしかないのか? 方途を失い、鼻の奥がつんと痛んだ。