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隕石の堆積場

家族写真の違和感

家族が並んで、カメラの方を一斉に見つめている写真。一般的に、家族の幸せの象徴のように捉えられている、そんな家族写真を見るとき、どうにも抑えられない奇妙な違和感が訪れる。
誰も、お互いのことを見ていない。
家族以外の人にどう見られるかを意識した顔。
我々家族はこうあるべきという理想、規範、重りをつけられた心が写っているように、私には見えてしまう。


家族の誰かが旅立ち、別れの儀式がやってくるとき。
そのセレモニーをつつがなく執り行うために遺族は心を砕き、慌ただしく動き回り、会葬者に対応し、息つく暇もない。そのことを寧ろ歓迎する人が多いことも知っている。悲しみに直面することから遠ざけてくれるからと。


通夜の飲食の場など、久しぶりに集まった親戚が懇談する場となって、よもやま話に花が咲いたりする。亡くなった人の思い出話も含まれるだろうけれど、大抵はそこから脱線して、悲しみの場に集ったことさえ忘れてしまいそう。
無理に明るく振る舞うことが、美徳であるかのように。
実際に、そのように誰もが真実から目を背け、腫れ物に触らないよう当たり障りのない会話で埋め尽くされた別れの儀式を体験したことがあって、それ以来、葬儀というものの在り方に疑問を抱くようになったし、トラウマと言ってもいいくらい、恐ろしく感じられるようになってしまった。


葬儀は故人のためではなく、家族を喪った遺族のためという考え方は、一般論としては理解できる。けれど全く逆の思いがある。
悲しむべき時に悲しむことさえできない。死という現実としっかり向き合って、感じられるものを一つ残らず味わうことが、別れゆく相手への礼儀だし、愛だと、私には感じられる。


私は、もっと自分の心に向き合いたい。
あれこれと雑事に追われることで、忙しい日常の延長上に置かれ、くたびれ果て、結局何が目的の儀式だったのか見失い、全員が思考を停止してそんなものだと受け入れている。これが形骸化した葬儀の真の姿ではないのだろうか。
私だったら、そんなふうに見送られたいだろうか?
私だったら、葬儀なんかやってほしくない。誰にも別れの挨拶などしてほしくない。風のように、ふっと消えていなくなりたい。もしも私がいなくなることで悲しむ人がいるのなら、その人の悲しみにただ寄り添っていたいだけ。


家族や大切な人のことを思うとき、心の全てで向かい合うことを許されず、それ以外の事をより強く意識せざるを得ない状況が付随する。それが社会のシステムだとしたら、私はそんな社会が大嫌いだし、そこに所属したくないと思ってしまう。