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隕石の堆積場

春めいた午後の沈黙

地図を見ると、栃木県か群馬県のあたりのようだが、実際の地図とは全く異なる、聞いたことのない地名、実在しない国道、見覚えのない図柄がそこにあった。


K君とその奥さん、私と、友人Sの四人で、国内旅行に行くことになった。K君が車を運転してくれて、私とSはそれに便乗する形となった。
私たちは、K君の奥さんとはほぼ初対面でよく知らなかったし、助手席に座った奥さんの、細面で尖った印象の顔つきを見ると、ちょっと怖い人なのではないかという思いが過った。先入観に囚われるのは良くないと、自分を戒めたけれど、直感というものはどうしようもなく、ただ湧き上がるものだ。
殊に暖かい日で、用意してきた服はどれも役に立ちそうになかった。もっと薄手の春服を着てくるんだったと後悔した。小豆色のコットンのニットチュニックでは、陽射しのふんだんに射し込む車内で、少し汗ばむのを感じた。小豆色がちょっと地味だったかな。着替えはもっと厚手の服ばかりだし、明日明後日と何を着よう。


私たちはとりあえず和気藹々とした雰囲気で、目的の温泉地らしい町に到着したようだ。地図やガイドブックも用意してきたのだけれど、K君に任せきりで、リュックサックから取り出す必要もなかった。ガイドブックのほか、その土地が舞台になったという小説の文庫本や、実はK君の写真がその仕事ぶりとともに掲載されている雑誌まで持ってきたので、小ぶりの黒いリュックサックはずっしりと重くなっていた。
私は要らぬところで気を遣い、そんな雑誌まで持ってきたのに、いつもの如く気心の知れない未知の人物がいると気疲れしてしまう癖が出たようで、体より先に心がくたびれてきていた。


土産物を売る店で、それぞれが買い物をするために一時別行動をすることになった。私は特に買いたいものもなく、とにかく一旦独りになりたかった。道の駅みたいな、だだっ広い体育館のようなその店の隅に、忘れられたように置いてあったベンチに腰掛けて、一息ついた。
長いことぼんやりと座っていた。観光客や店員や、たまにどのカテゴリーに属するかが全く想像できないような、場違いにも見える不思議な人々が行き交うのを、透明なフィルム越しに眺めていた。しばらくして、本を持っていることに気づき、サックのファスナーを開けて中を覗き込む。K君の出ている雑誌の下に隠れていたガイドブックを取り出し、その温泉地について書かれているページをパラパラとめくった。


顔を上げると、そこにK君が立っていた。セラミックの面のような固まった表情。やや青ざめた唇を開いて、彼は言った。そんな本を持ってきてるくせに、誰にも見せず一人で見てるのかよ。一段低い声だった。私は驚いて彼を見上げることしかできなかった。沈黙がしばし流れた。彼の怒りが膨れていく音が聞こえるほどの沈黙が。
別に本を隠し持っていたわけではないし、故意に見せなかったわけでもない。単に必要を感じなかっただけで、今は手持ち無沙汰だったからちょっと取り出してみただけだと、そんなことを告げたところで無意味なのはわかりきっていた。協調を乱す異物をつまみだそうとするピンセットのような眼差しで、彼は私を見た。そして背を向けて立ち去っていった。


私は体育館のような店から外に出て、鋭い陽光に目を細めた。一緒に車に乗せてもらって旅するのはもう無理かもしれない。ここからタクシーに乗って駅まで出て、一人で帰る算段をし始めていた。友人Sが、ようやく見つけた、という表情で私に近づいてきた。なんだ、こんなところにいたの?
私は、K君を怒らせてしまった顛末を話した。Sは怪訝そうな顔をしていたが、ぱっと電球がついたように、K君はもしかして鈴鹿ちゃんが成績が良かったのを密かに妬んでいたんじゃない? と言った。私よりも成績が良かったであろう彼女から、そんな言葉が出てくるのは意外だった。それに、その憶測は全く的外れだ。K君は、今更嫉妬に駆られて難癖をつけるような人ではないし、怒りの原因が私の本なのは確かだったから。
とりあえず、駐車場に停めてある車のところまで行って、彼の様子を見ようよとSが言い、私たちは裏手にあるサッカー場ほどもある大きな駐車場に向かって歩いた。


よく考えたら、私は何も悪くない気がした。本を持っているなら皆に分かち合わなくてはならないという決まりがあるわけでもないし、私は元来社交的な人間ではない。体育館のような店の後ろ側には、老人ホームらしい建物があった。そこを通り過ぎる時、ホームの入り口の自動ドアが開き、中から見覚えのあるような顔の、初老の男性が出てきた。
俳優のK・Mだった。テレビで見るのと寸分違わぬ姿に思えた。芸能人を見て、実物の方が素敵ですね、などと言っている人がよくいるので、画面に映っているより実物は二割増しで素敵なものなんだろうと常々思っていたけれど、特にそんなことはなかった。オーラがすごいということも特になかった。そんなものなんだなと思っていると、Sが俳優に気づき、声をかけた。K・Mさんですよね? 
俳優は辺りに響くような大きな声で、はいそうです! と答えた。いつも拝見してます! そうですか、ありがとうございます! 俳優にとっては毎日、幾度となく繰り返されることなのだろう。愛想は満点だが全く心のこもらない形式的な挨拶だった。空っぽなのを補うように、声だけ大きくなったのかしら。


そんなどうでもいいようなことを、心の表皮でせわしく考えながら、K夫妻がいるであろう駐車場に向かう。春めいた午後の時間が、川底を浚うように特にゆっくりと流れているのは、何かの罰なのだろうか、と思った。

 

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