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隕石の堆積場

花一匁

“はないちもんめ”という、古くから伝わる子供の遊び。あれってとても残酷な気がする。
私は非常におとなしく内向的な子供だったので、幼少期から特に親しくしていた幼馴染のYちゃん以外の友達には、あまり心を開けなかった。だから存在感が薄かったのだろう。花一匁をすると、たいてい最後まで名前を呼ばれることがなかった。
はやくに名を呼ばれ、嬉々とした、それが当然だという自負に溢れた表情で、対陣へと駆けていく子たちを見つめ、残された者はほろ苦さを黙って飲み込むしかない。


社会は平等ではないことを子供のうちから教え込むのには、適しているのかもしれないけれど。たわいのない遊びとはいえ、子供ながらに、人間の価値には格差があるということに直面させられるのだから。
花一匁のわらべうたは、女の子(=花)を売買する際のやりとりを意味している、という説もあるのだとか。存在に露骨に値段を付けるようなこの遊びが、私たちの記憶の中で、ノスタルジーという衣装をまとって澄ました顔をしつづけていることに、今でもほろ苦い思いがする。


私は、他人を大切に扱うことができない。そんな気がして、時々自分が恐ろしくなることがある。
他人の苦しみや辛さに向き合うことなく、自分の殻に逃げ込んで、自分の傷だけ舐めている。


それは、私自身が理解されず、打ち捨てられるような気がしているからじゃないかな。
たとえば、少数派のためにバリアフリーの社会にしようという動きなども、概念として素晴らしいと勿論思う。なのに、どこか不思議な気がしてしまう。そんなことが本当にあり得るのか。心のバリアフリーが不可能だから、せめて見えるところだけポーズをとっているだけじゃないのか。
人々はいつも、多くの人に共通する最大公約数から順番に配慮する。割り切れない孤独な数は少数派の中の少数派で、最後まで取り残されるのが当然に思えた。世間が他の人を丁重に扱っていても 私はいつも大事にされないで放って置かれるような気がしていた。花一匁で最後まで残されるように。そんな思いがいつどこで私に根付いたのか、考えてみると恐ろしい。


世の中はそういうものだからと、諦め、そこに染まって生きていくしかないのか。
世の中はそういうものだからと、諦め、それに染まらず生きていく方がいいな。
最大公約数のようなわかりやすい価値に、無理やりに染まらないで、割り切れないままでいたい。自分が自分の最大の理解者であれば、それでいい。

 

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