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無償の愛の形

母なる証明』 2009年、ポン・ジュノ監督作品を観た。
グエムル」は、私にはあまり良さが理解できなかったので、この監督さんは苦手かも……と思い込んでいた部分があったけれど、それは巨大な間違いだった。


映像における文体のようなものが全面に出てきて、その語り口が第一の特徴という、作家主義の映画も良いのだけれど、この映画はそういう匂いがなく、丁寧に組まれた物語の後ろに隠れた、毛細血管のように張り巡らされた緻密な演出と編集が、理論的に全体を支えているように感じた。1ミリのズレも許さないほどに理論的、なのにすごく感覚的というか。


この母の愛の前では、どんな罪も精算されてしまうような気分になる。見終わってこの罪を糾弾したい思いを残す人は、あまりいないのではないかな。暴走した愛は狂気と紙一重だけれど、母の愛と狂気とは、全く重なる部分がない気がする。母の愛には、欲というものが溶けて混入することがないからか。どんな過ちも穢れなく高貴にすら見えてしまう。
どんな罪悪感より、倫理観より、子供を思う気持ちが迷いなく勝利する。たとえ自分が一生罪を抱えて苦しみ続けなくてはいけないと分かっていても。


ちょっと前に観た、キム・ギドクの『嘆きのピエタ』という映画もそうだったけれど、韓国の母親はとにかく、体面も体裁もなく愛のままに突っ走るという描かれ方が多い。社会に向けた顔というものを完全に忘れて、子供のことだけしかなくなる。子供だけが世界のすべて、後は全部を敵とみなす。それはある意味潔くて。
親が過剰な愛を子供に押し付けることが、誰よりも嫌いなはずの私が、この韓国の母の在り方には嫌悪を抱くどころか、むしろ深い共感を自ずと感じてしまうということが、自分でも不思議なくらい。子供を自分と同一視して、自分の欲を満たすために利用するのとは次元が違う、無償の愛の形だから。


知的障害のある息子役、ウォンビンの演技がとても自然で、澄んだ湖底に揺らめく光のような、その無垢な眼差しが美しく、哀しかった。