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星へ梯子をかける

グレート・ギャツビー』 スコット・フィッツジェラルド著 村上春樹訳 読了した。
まだ十代の頃、古典的な名作と言われるものは片っ端から読んでみようとしていたその頃読んだ中の一冊に、この小説もあった。翻訳文学ならではの、回りくどいような何とも言えない読みにくさと格闘しながら、頑張ったような記憶がある。
当時は、片想いで人生を使い果たした、哀しい男性の話だと思った。ストーカー的でもあるし、過度な上昇志向と見栄が、純粋な恋愛感情に基づいていたとしても、理解されることなく寂しく死んでいった姿は哀れだし、どうして「偉大なる」と形容されるのだろう? と正直思った。反語的な、皮肉のような表現でもないし。


今読んでみて、彼が偉大なのは、その純粋性においてなのだと思った。その一点においてさえ、かけがえのない貴さを持っているのだと。
夜空に梯子をかければ、たったひとつのあの星に手が届くと思った。そして自身の才覚と努力のすべてを注ぎ込んで、時間をかけ計画的に、一つ一つそれを形にしていき、いざ、用意した梯子をかけて、夜空へと昇っていった。
そして、夜空に到達して、そこには手に入れられるはずの星など存在していなかったことを知らしめられる前に、墜落した。
その夢が現実に叶わないことに気づき始めてはいたけれど、それは星が星でなかったからではなく、あくまで自分が梯子をかけるのに失敗したか、うまく昇ることができなかったから。彼の中で、星は星のまま、永遠に瞬き続けている。


彼の魂の純潔さを、語り手の青年以外に誰ひとり気づかないし、興味すら持たれない。それも偉大である証なのかもしれない。たったひとりでも、彼の真実の理解者であり、証言者がいたことは、極めて幸福なことだったと言えるのかもしれない。


信じたいことを信じたまま生き抜いて、死んでしまえば、それが私の真実になる……という言葉を、何とはなしにいつもそばに置いてきた。これはまさにギャツビーみたいに生き、死んでいくってことだ。私自身、この純潔さを生きたいと願っていたんだ。