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家族が無くなる日

子供の頃から、自分の苗字が嫌いで仕方なかった。
なぜだか理由がわからなかったけれど、あとになって大体のことがわかった。

祖父は婿養子でこの家に入った。妻に先立たれた後、内縁の妻だったのが私の祖母。父はその間に生まれた。だから、父と私には全くこの家の血が流れていない。
氏族的なエネルギーから見たら他所者で、肩身が狭い。本来の私でないもので、社会的な器が作られてしまったような違和感。間違った場所に生まれ落ち、しがみつかざるを得なかったような不条理の感覚。この名字を名乗るたびに、自分が自分でないような何とも言えない居心地の悪さを感じていたのだけれど、その感覚は正しかったのだった。


家と家という概念を超えられない今の結婚の制度は、もう時代に即していない。とても重くるしく息苦しい。フランスみたいに事実婚が主流になるのは、手始めに良い変化ではないかなと、個人的には思う。
家族だから、親子だからと心の負債を押し付けられ、連綿と背負わされることがないように、新しい世界に生まれ変わることを願っている。

家族というものの良い側面ばかりが美しく仕立て上げられ、声高に語られる。負の側面は、個人の不具合として片付けられてしまう。
遺伝子よりも、魂の親族かどうかがより重要ではないかと感じる。もっと広く考えれば、遺伝子をたどっていけば人類はみんな家族、親戚になるのだから、血縁関係にこだわるのは近視眼的ということにもなるのでは。
地域のコミュニティがすべての子供の親となり、別け隔てなく教育するような形態になれば一番いいけれど。それには人類の精神がもっと先へ進んでいなければ。弱肉強食、互いに搾取しあって生きる段階を卒業していなければ。


肉親の情を否定しているわけじゃない。自分の血を引く子供を特に深く愛するのは、どんな未来が来ても同じだと思うし。ただ、経済的にも、教育面でも、家族という構造に何もかもを背負わせすぎている今の状態が、「家族という病理」を生み出していると感じるのは確か。

子供についての責任はすべて親にあるとすることで、子供は親の所有物だと勘違いさせてしまう危険がある。そして勘違いしていることを気づかないままに、自ら立派な親だと信じ込んでいる場合が多い。生物学的な意味で親であるということ以上に、親ということに別の意味を持たせないことが必要なのではないかと思う。
そのためには、社会構造をまるごとひっくり返すくらいの大きな変化に耐えなければいけないだろうけど。その変化が待ち遠しくもある。