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美男と醜女

『亡き王女のためのパヴァーヌ』 パク・ミンギュ著 読了した。

かつて私が接したことのあるあらゆる作品で、人間の容貌の「美醜」という価値観は深く掘り下げられることなく、美しい女性というものは美しさという一点において、単純に価値があるものとされてきたように思う。殆ど盲目的と言っていいほど、その価値は物語の基底にすでに存在していて、それを前提に展開されるものだった。
善と悪、光と影、その二元性に疑いを提示して、闇の中にこそ真実の輝きを見出そうとしてきたような世界にあっても、容貌の美醜(特に女性の)という点は、不思議なほど当たり前に受け流されることが多かったように思える。
美女と野獣というのはあっても、その反対はなかったのでは。

この作品は、そこに大きく一石を投じた小説だった。韓国は特に、容姿による優遇や差別がひどいらしいので、その土壌からこのような花が咲くのは頷ける。
主人公の恋した女性は、周囲の目を引くほど「醜い」容姿の女性だった。


優れた容姿を誇る俳優の父と、その父に捨てられた糟糠の妻である母との関係を目の当たりに、主人公は繊細な傷を負って成長した。容姿に劣る母親の舐めた苦しみを、彼は自分自身の苦しみとして、同化して抱えている。
彼の恋した女性も、外見における、社会からの容赦ない仕打ちに傷つき続けてきた。彼の裡に秘められていた痛みは、彼女の痛みと深く共鳴することが出来た。それでも、少し触れただけでも激痛が走るほどに傷つき続けた彼女の心に、易易と触れることはできなかった。
その二人の間に立つ、もうひとりの友人男性が、振り子の支点のような存在として、不思議なバランスに保たれた三角形が物語を牽引していく。


美醜という価値観、それが社会に蔓延するということ。金銭の多寡とまったく同じ、社会によるランク付け。
一部の持てる者と、その他大勢の持たざる者。
持たざる者が、持てる者を羨み、神格化していく心理。それによってますます溝を深くし、自らを貶めていくという結果。
社会の病理が、幾重にも折り重なった薄紙の向こうに、次第に透けて見えてくるみたいに浮かび上がってくる。
誰もが当たり前のようにその構造の中で呼吸していて、当たり前過ぎてそこにあることも気づいていないような病理に、容赦なくメスを入れ、息の根を止めるほどに、刺したメスを深く捻っている。


外見が美しいことや、財産をたくさん持つことが、それ自体に、本質的にどれほどの価値があるのだろうか。それに価値を与えているのは誰だろうか。
自らの持たないものにこそ価値があるとして、自分を卑下しなければ生きてはいけないと思い込む。
愛される価値がないと思い込む。
愛される価値があるのは美しいあの人達だけだから、スクリーンの中の人を神のように祭り上げ、讃え、追いかける。
彼らが美しいのは、我々普通の人間たちが、数え切れないほどの普通の人間たちが、こぞって愛を捧げているからなんだ、その数え切れないほどの愛が彼らを輝かせているんだと、主人公の友人が言う。そして、すぐ隣りにいる相手のことは、自分を卑下するのと同じく見下し、粗を探しながら生きていくという、なんとも惨めなお笑い草。それが人間という愚かな生き物なのだと。


愛し合うことは、決して美しくない互いの中から、美しさを見出し、美しさを “塑造” すること。
そして、互いの光で照らし合い、相手がどれほど美しい存在なのかを教え合うこと。

こうしてなんとか自分の言葉にしても、この小説で語られていることの欠片ですら、表現できていないことがもどかしい。
私にとって、この上なく衝撃的な、素晴らしい小説だった。この作家さんの、弱き者へと投げかける、愛に満ちた視線が大好きだ。