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隣のコロちゃん

私が中学に上がったばかりの頃、隣の家で柴犬を飼っていた。
コロちゃんは無駄吠えすることもない、とてもおとなしい女の子だった。隣家のお父さんはかなりの亭主関白で、奥さんに対し怒鳴り散らす声が頻繁に聞こえてきた。その怖いお父さんが、コロちゃんに対してはまさに猫撫で声というような甘くうわずった声を出して、名前を連呼しつつ撫で回していた。そのおかげで、犬の名前をうちの家族もみな知っていた。


私は当時はペットを飼ったこともなく、どちらかと言えば動物に興味はなく、見知らぬものへの恐怖心のほうが強かった。中学の新しい環境に慣れることができず、毎朝、学校に行く時間が来てしまうのが嫌で、当時好きでよく読んでいた雑誌を取り出しては、出かける前の10分ほど、現実逃避をするのが習慣だった。
春の麗らかな陽気も、新緑の薫りも、まったく心に届かないほど毎朝が憂鬱だった。あまり食べたくない朝食を飲み込み、仕方なく家を出る。ある日、隣家の前を通り過ぎるとき、玄関前の門扉の向こうに、薄茶色の柴犬がいた。おじさんに溺愛されているコロちゃんだ、と思いながら前を通り過ぎる。近距離で顔を合わせるのは初めてだった。玄関前を過ぎて、ガレージの前に差し掛かると、コロちゃんも塀の向こうを私と同じ方向に走り、ガレージに姿を現した。じっと私を見て、優しく尻尾を振っていた。しばらくして振り返ると、コロちゃんはまだ私を見ていて、目が合うと尻尾を揺らすのが見えた。
翌朝も、玄関前を通るとき、コロちゃんはどこからともなく走ってきて私を見上げ、私を追ってガレージまで移動して、また尻尾を振った。その翌日も同じだった。慣れてきた私は次第に、コロちゃんおはよう、コロちゃん行ってくるね、と小さく声をかけたりするようになった。コロちゃんが見送ってくれるのが少しだけ楽しみになって、少しだけ、家を出るのが辛くなくなった。


梅雨に入って、雨の日が増えたからだろうか、なんとなくコロちゃんが庭に放たれている日が減ったような気がした。その頃には、コロちゃんがいるかどうかがさほど意識されないくらいに、学校に行くことが苦痛ではなくなっていたのだろう。あまり気にも留めなかった。走り出した列車に乗り遅れ、必死にしがみついていたものが、どうにかこうにか体を引きずり上げることに成功した。息を整えつつ、ようやくほっと胸を撫で下ろした。そんな季節だった。
その後、コロちゃんが庭に出されていることはほとんどなくなった。私も生活に忙しく、日々に埋もれて思い出すこともなくなっていった。


数年経って、隣家で新しい犬を飼い始めたことで、コロちゃんが亡くなったことを知った。

せめてもう一度だけ、あのときはありがとうね、と伝えたかった。あの優しい目を見つめながら、頭を撫でてあげたかった。
あなたが励ましてくれたから、私はがんばれたんだよ。
それは他の誰ひとり知らない、私たちだけの秘密だったね。


亭主関白のお父さんももう旅立ったし、ずいぶん長い時間が流れたけれど、涼しい目をした薄茶色の柴犬を見るとみなコロちゃんに見えてしまい、意識に上書きされ続けた結果、実際のコロちゃんがどんな犬だったか、今となってはその特徴をよく憶えていない。