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隕石の堆積場

夢日記はアートであり得る?

ほぼ日刊イトイ新聞に「細野晴臣夢日記」という連載があったのを見つけた。もう十年以上前のもの。かいつまんで読んだけど、すごく面白かった。
夢日記を書くこと、公開することに迷いを感じて、他の人が書いている夢日記を見てみようと思い、探してみた中で見つかった。淡々とした言葉の羅列で表現された夢日記だけど、内容がすごくシュールで芸術的。
やっぱり夢の記録は、私にとってとても興味深い。でもプログなど巷に溢れている夢日記で、楽しめるものがほとんどないのはどうしてだろう。書いた人自身を知らないと、人の見た夢になんか興味を持てないものなのか、それとも普遍的なひとつのアートとして成り立ち得るものなのか。アートとなるために必要な条件とは何なのか。細野さんのは文章は朴訥としているけれど味わい深く、完全にアートとして成立していた。でも細野さんという人を全く知らず、巷の無名の人だったとしたら、同じように楽しめたんだろうか? ……などといろいろ考えてしまった。

夏目漱石の「夢十夜」にかつて衝撃を受けて、何となく書き始め、ただひたすらそれを書くことが楽しくて続けていたものだった。自分がむかし書いた、書いた内容も忘れてしまった古い夢日記を読み返し、全く他者の目線で接したけれど、自分の感覚ではとても興味深く感じられた。これは私の人生の宝でもあると思えるくらい。

夢の世界が本来の世界という気がしている。この現実の方がまやかしなんだ。
夢は、イマジネーションの最大の源泉でもある。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」みたいな夢幻の世界、深く幻想的な、現実という足枷から解き放たれた自由な世界に身を浮かべて、ようやく魂が深呼吸をすることができる。
一つの表現形態として成り立っていても、いなかったとしても、ただ自身の救済のためだけに書いていく。