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瞑想が苦手

最近のマインドフルネス等が流行りだす遥か以前から、瞑想は大事なんだということを数え切れないほど見聞きしてきた。けれど、どうしてもうまく実践できず、苦手意識を持ってしまっていたみたいだ。
思考を手放そうとすればするほど、思考に埋め尽くされる。手放そうと躍起になるのではなく、ただ流れていくのを見送るようにすればいいというけど、それだって見送ろうと意識しなければできない。手放すというのと言葉が違うだけじゃないの?と感じていた。放っておけば思考はどんどん移ろっていくのに、ただ見送ってるのなら瞑想も何もしないのと同じなのでは?と思うこともあった。
イメージングならできるし、入り込めれば上手くいく。でも入り込めないときはまるで駄目。雑念が先に立つときはどうしても入り込んでいけない。

思考が苦しくて止めたいと思うときほど、止められない。
苦しい思考をやめられないということで、やめなければいけないと思うことで、二重の苦しみを抱くことになった。
もう疲れて、どうこうしようとすることに疲れ果てて、瞑想なんかどうでも良くなった。できないことを無理にさせようとしても仕方ないと思った。

でも、「自分が何を思考しているのか、思考の中に巻き込まれず、それを俯瞰して観察している部分に気づいている」という状態ならば、私ははじめからそれがある程度できていたのではないかという気がしてきた。どんなに思考の渦に巻き込まれ、苦しんでいても、それをどこかで見ている別の「目」を感じていた。私は今こういうことで苦しんでいる、ということを認識している別の角度の認識を、たぶんはじめから持っていたと思う。

とりとめのない思考を巡らすのは、むしろ私の趣味なんだ。それを取り上げようとなんてしなくてよかったのかも知れない。私にとっては、思考することが瞑想そのものなのかも知れないと、この頃ちょっとだけ思うようになった。むしろそう思ったほうが楽になるかもしれない。

瞑想によって、苦しみや不安を軽減し、心を鎮め、コントロールしようとすることが、間違いだったのかも知れない。そんなコントロールは手放すことにする。
瞑想のカテゴリーでここにもいくつか書いているような、イメージングによる浄化は、心地よく感じるときだけ、快くなるためだけに実践する。何か他の目的を潜ませることなく。
無駄な思考をなくすことが目的になったら、それはすでに瞑想じゃない。目的でも手段でもない。それらとは本質的に相容れない。

自分に何が向いていて何が向いていないのか、自分にしか分からない。試行錯誤する中で、それを見つけていくことが大切で、他者が良いと言っている良さそうなやり方に自分を合わせることでは決してない。そこに、ほんの少しの妥協もあってはいけない。