小学6年のとき、クラスにいじめがあった。女子は20人余りだったけれど、そのうち15人ほどが大きなグループを形成していて、そのグループ内で、一人ずつターゲットが移動していき、残りの全員がいじめに参加する形だった。無視をするというのが基本で、遠くでわざと聞こえるように悪口を言ったり、嘲るような態度をとったり、時にはエスカレートして集団で取り囲みビンタをしたり、暴力に発展することもあった。
私はなんとなく自然な流れでそのグループに所属することになってしまっていて、はじめは集団の論理に逆らえず、積極的にではないにしても、無視をする程度のことには参加せざるを得なかった。
特にリーダーなどがいるわけでなく、横のパワーバランスで自然とターゲットが決まり、それがいつのまにか別のターゲットへと移っていった。悲壮感を持ってじっと耐えながらも、どうか許してほしいという態度を全身に滲ませる人ほど、度々ターゲットになり、期間も長くなる。それが不思議だった。
暴力を目にしたクラスの男子が、耐え兼ねて担任の教師に密告する騒ぎも起きた。先生はホームルームの際、最後に一言付け加える形で、このクラスでいじめのようなことが起こっているのが本当だとしたら、それは悲しむべきことで、すぐにやめるようにと言った。それが担任の対応の全てだった。私は心底落胆した。
おかしなことに、いじめに積極的だった子たちも、あの先生はだめだね、指導力がないよね、とこき下ろしているのを何度か耳にした。担任はまだ若い、わりと見た目も良い男性教師で、とても人気があったのに、それを機に人気は地に墜ちた。
ついに私がいじめのターゲットになる日が来た。心が縮み上がるような恐怖を感じながらも、来る時が来たという分かりきっていたことへの冷めた気持ちもどこかにあった。その冷めた感が伝わったのか、あまり応えていない様子の私をいじめるのがつまらなかったのか、いじめはすぐに終わり、別のターゲットへと移っていったけれど、私はこれは絶好の機会だと捉え、そのグループを抜けるきっかけとして利用することを決めた。15人強のグループの他に、そこへ入れてもらえない残り物の女子が数人いて、彼女たちに近づいていった。
残り物の子たちは、自分たちを残り物などと全く考えていなかった。周りに流されにくい、ある意味鈍感で、癖の強い、変わり者の子たちがそこにいた。彼女たちと一緒に過ごした残りの時間は、とても楽しかった。集団の圧力から開放されただけでなく、残り物たちとのほうがずっと馬が合うことに気づいたからだった。なぜもっと早く集団を抜けなかったのだろうと悔やんだ。それでもそのグループをひとりで抜けることを決め、躊躇せず実行したことは、大袈裟だけれど人生で指折りの英断だったと思う。
卒業を前に、サイン帳に一言書いてもらうのが流行っていて、私もクラスの全員にサイン帳を回した。いじめグループにいた一人の子が、「鈴鹿ちゃんは私達のグループにいたのに、途中で抜けて他のグループに行っちゃった。どうして?」と書いてきた。
「どうして?」って? いじめなんかするのもされるのも嫌だから出ていったんだよ、と心の中で叫んだ。本当に抜けた理由がわからなかったのか、暗に抜けたことを非難したかったのか、それはわからないけれど、あっけらかんと「どうして?」と訊ける心理は理解が難しかった。
実際、そのグループを自らの意思で抜けたのは私ただひとり。いじめられて教室に来れなくなり保健室登校していた子がひとり、のちに成り行きで残り物グループへとやってきた。それだけだった。
いじめに参加していた子たちも、ひとりひとりを見ればごく普通で、むしろとても優しく良い子たちだった。彼女たちが集団の中で、圧縮された悪意を結晶化させていくのを見て、余計に恐ろしく感じた。深い部分で、人間そのものが怖くなった。
みんな、いじめなんかしたくなかったけれど、仲間はずれになりたくない一心でグループにしがみついていたのだろうか。でもそのグループに属していればいつか仲間はずれの順番が巡ってくるのは自明の理なのに、そんな簡単な矛盾に気づかないはずなどないのに。
仲間はずれになってもまた受け入れてもらえるというその連続する体験によって、絆の張力がより強まったようで安心することができ、その安心感に中毒していたのだろうか? グループの掟に殉じることで、メンバーであることを承認されるというような、言語化されない濃密な空気に支配されていた。
人というもの、集団というものに対し、漠然と抱いていた期待を見失い、静かな諦めの感情を知った、はじめの経験だった。多分それ以来、集団の中の恒常的な圧力や不文律に言いしれぬ嫌悪感を抱き、距離を置くようになってしまった。グループを抜けたことで、私の方からグループ全体を締め出し、心の中で無視をするようになったのなら、それも広い意味でいじめをし返したことになるのかな。
誰しも、似たような経験があるんだろう。
嫌われるのを恐れてそこに居つづけるか、嫌ならそこを自分で出ていくか、どちらかしか無いんだ。今の私も、当時の私と同じ行動ができるだろうか。
孤独を恐れず出ていって、なおかつ恨みも嫌悪感も持たずに愛を返せるなら、本当に自由になれたということなんだろう。そんな境地に達してみたい。