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隕石の堆積場

役に立たない生き方

子供の頃ピアノを習っていて、レッスンの前には「よろしくおねがいします」終わったら「ありがとうございました」と言いなさいと、母に口酸っぱく言われた。
私は言われたとおりにしていた。それが当たり前だし、社会的に正しいことなのもわかった。だけど、振り払えない違和感がずっとあった。心から感謝しているわけでもない、完全に儀礼的で、中身のこもらない言葉は、どこか呪文やお経を唱えるようで、信仰を強要されているような苦々しい気持ちがあった。

赤ちゃんを見たら自動的に「かわいい!」花を見たら自動的に「きれい!」そこに主体である私達の思考も感性も介在しない。ただただ自動的なルーティンとしてそう言っているだけじゃないのか。
そうするのが礼儀だからとか、そうするものだから、そうしないと笑われるから、しなければいけないというのは、外部から入力したものを自分の領域を通しても何の反応も起こさせず、そのまま外部に出力すること。そのしきたりも変容しなければ、自分自身も何も変容しない。エネルギーが通過しているのに、何も反応が起きないのは、不自然なことに思える。

 何も起こさないように、エネルギーをまるで逆の方向に利用しているんだ。自らに与えられた貴重で有限の生命エネルギーを、そうやって何事も起こさないために、押さえつけるために浪費しているとしか思えない。

社会というひとつの「存在」が、私たちを通過して、私たち個人の人生を乗っ取っている。社会人という仮面をかぶった、ホモ・サピエンスとはまた違う生き物になる。

 

社会のためになる、社会の役に立つ生き方。
違うでしょ。私たちがどれだけ社会の役に立つか、じゃない。
社会が、いかに私たちの役に立つか、でしょ。

帝国主義の中、お国のために命を捧げた兵士たちと同じことを、いまも形を変えて繰り返しているだけみたい。自分を主体に生きていない。私もそうだった。社会の役に立たない私は生きる価値がないのかもしれないと、自分を疑い、貶め、蔑ろにしていた。
社会に貢献し人のためになっているかどうかという大きな側面から、家事を完璧にこなし品数の多いおかずをテーブルに並べているか、子供のために可愛いキャラ弁を作れているかなどという小さな面まで、役立っているかどうかで価値を測られ、それに慣れることで自らをも測ってしまう癖がつく。

社会の役にたたない生き方は、効率や生産性第一で「人間」さえも消費する社会に対する、痛烈な批評であり得る。生き方そのものが表現なのだと言えるのかもしれない。
囚われて右往左往するのはやめて、自分の足でこのシステムの外に出る。
意識を宇宙に浮遊させていたい。外側から見るこの星は美しいから。

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