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愛と欲望の境界線

韓国映画『スカーレット・レター』を観た。ハン・ソッキュイ・ウンジュ主演。

愛と欲望の境界線はどこにあるのか。欲望と愛はどう違うのか。そもそも、特定の誰かとの愛とは実在し得るものなのか…。
欲望に身を任せる人々。誰かを狂おしく求める人々。皆がとても愚かで、倫理に欠け、自分勝手に生きている。
ストーリーの表層ををかいつまんで説明したら、なんとも形容しがたいほど馬鹿馬鹿しく愚かなんだ。車のトランクの中でいちゃついていたら蓋が閉まって出られなくなるなんて、阿呆らしいこと極まりない。
彼女がトランクを閉めたのは、心中を目論んだ確信犯なのか。

そこに閉じ込められた男女がそれぞれに勝手な夢を見て、互いに言葉を交わしながら全く食い違う世界を見つめ、狂気の底を覗き込む様には、とてつもない凄みがあった。自分の恥部を顕微鏡で拡大して見せられているような気分になった。

サスペンス映画だと思って観たらちょっと混乱するかも。これは完全に愛と欲望の映画だから。
主人公が担当する刑事事件の内容と、自らの人生の出来事が重なり合い、複雑な和音を奏でるように展開していく。互いに映し合う鏡となって二つの世界は並走する。

人間には欲望という名の虚無がある。ブラックホールのようなとんでもない引力を持って何もかもを吸い込んでしまう闇。自分の奥深くにあるその闇を、光で満たそうと足掻くことが、生きるということそのものだったりする。

狂おしいほど愛しているという相手は、その存在を認知した途端に光を吸い込まれ、ただの闇となる。どんな光も吸い込んでしまうのがブラックホールだから。その闇を光と勘違いして、求め続けるだけなんだ。相手は実在しないも同じだ。闇が闇を求めているだけなんだ。

「結婚」というものの形骸化も一つのテーマ。主人公の過不足ない生活は、まるで生活感のないモデルルームのような部屋で営まれ、過不足ない妻は、妊娠すると夫に黙って子供を堕ろす。それにも理由があった。
全員が、心に秘めたブラックホールを神のように崇め、それに帰依するが如く生きている。真っ赤に血塗られた夢を、ほとんど無意識に追いかける。それが生きるということだから。

イ・ウンジュさんの遺作となった作品だそう。まだあどけなさが僅かに感じられるほど、映画の中の彼女は若く、輝いていた。その若さの煌めきが、それはもうきらきらと目映く虚無のまわりを飾り立てる。彼女の強烈な光と闇、それだけでこの映画の本質はもう完成されてると言っていいくらい。こんな素晴らしい女優さんが夭逝したことがとても残念でなりません。