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隕石の堆積場

地下水脈を流れる輝き

『オアシス』 2002年、イ・チャンドン監督作品を観た。
社会不適合者の男性と、脳性麻痺の障碍を持つ女性との、異形でありながらも純粋な恋愛。社会のタブーに果敢に切り込んでいく姿勢には、痺れる。

脳性麻痺の女性を演じた、ムン・ソリの演技が凄すぎた。実際にリハビリテーションを本格的に学んだそうだけれど、そこから得られたものを見事に昇華していて、本当に凄いとしか言いようがないと思った。障碍のある方の見た目をただモノマネするようなものであれば、侮蔑的なニュアンスが加わってしまう危険さえある難しい役どころだと思うのに、その精神の深みまで完全コピーしていると感じられた。女優としての生命だけでなく、一人の人としての生命までも賭しているような気迫が漲っていて、どこまでも深いリスペクトが流れているのを感じられた。

社会からも家族からも爪弾きにされている彼。理性で自分を制御することが全くなく、知性も感じられない。子供よりも子供のままで、人の顔色を窺うこともなく、本能のままに行動する。裏側から見れば、純粋な愛の衝動も、愛のための犠牲も、打算によって汚されることがない。その清らかさが神々しい。

手鏡の反射光が天井でチラチラと揺れる様子に、鳥の羽ばたきを見る。枝の影が壁に描き出す模様に、心から怯える彼女。様々な場面で、自在に動くことのできる自分自身をありありと想像し、イメージの中でどんな体験も味わい尽くすことができる。その豊かな感性を誰一人知らない、彼以外は。

たくさんの、本当にたくさんの抑圧と制限の中、生活という名の廃棄物にまみれ、押しつぶされて、堆積したはるか下方、隠された水脈を行く水のようにきらめいて流れる彼女の輝き。

社会に適応できない人間の、自由で伸びやかな魂。それに比較して、まともな社会人として生きる周囲の人々の、なんと無味乾燥なことか。本来の伸びやかな魂を無理やり枠に捻じ込んで、変形させて、工場で大量生産された消費物のように同じ顔をしている。ヘアスタイルや着ているものは違っても、同じ顔。

体を思いのままに動かせないことと、魂を思いのままに羽ばたかせることができないことと、どちらが深い障碍だと言えるのだろう。映画の中の世界に身を浸すうちに、彼女の曲がった手首より、社会に適応して生きる人間の心の方が、より無残に捻じ曲げられているようにも思えてきた。首長族の女性とか、中国の纏足とか、そんなものを連想した。共同の価値観によって、良いとされている価値に合わせ、本来の形を歪められる。それは特別なコミュニティにだけあるものじゃない。

もっと自由に、はみ出して生きたくなった。まだ枠に収まって安心しようとする部分が、心の中に幾つも幾つも残っているのに気づかされた。私は私の本当の形をまだ知らない。大抵の人は皆同じだ。見失ったまま、見当違いの努力を続けて、消耗して命を閉ざすだけ。自分だけの水脈に繋がり、形のない世界に像を結ぶ。そこで真実の愛とも繋がることができる。

 

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