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観察する私

昨年末頃から調子が悪くなり、年頭から一ヶ月ほど、精神科病棟に入院した。今回のうつ状態は人生で一番ひどかったかもしれない。

入院中、父の容態が悪化し、誤嚥性肺炎で亡くなった。
葬儀にも出席しなかった。外出許可が取れないわけではなく、無理して頑張れば行けないことはなかったけれど、主治医と相談した結果、参列しないことに自分で決めた。
父との確執が長くあったけれど、いざとなったら、たぶん私は後悔を多くするのだろうと思っていた。良くしてあげなかったことを、最期までどこかぎこちなく、いがみ合うような態度を崩せなかったことを悔やむだろうと思っていた。

実際は、不思議なほど心は凪いでいて、穏やかだった。
抗うつ薬と抗不安薬を連用していたせいもあるかもしれないけれど、安定していて、自責の念に囚われるようなこともなかった。
退院してからも、何も考えず、ひたすらたくさん眠って、どうしてもしなければならないことを済ませる以外は何もしないという生活。今までも何もしていないと思って過ごしていたけれど、全く違った。

なんとかして治そう、改善しよう、向上しよう、と考えていない瞬間はなかったのだということに気づいた。いくら休んでいるつもりでも、思考は全く休めていなかった。
したいことだけしてそれ以外何もしないという、何より簡単そうなことが、人はできないものなんだ。
問題を作り出し、問題だと認識し、常に解決しようと意識のどこかで必死になっていた。

かつて医療機関にお世話になったときは、薬が合わなかったのか全く効いた気がしなかった。その頃には認可されていなかった新しい薬が今ではスタンダードとなっているらしく、その抗うつ薬がよく効いた気がする。
自分でどうにかしようとなんかせずに、そこにあるものには何でも頼る。頼らなくては二進も三進も行かなくなって初めて、余計なことを考えずに、ただ頼ることができた。

不思議なことに、状態の悪かったはじめの頃にはあまり感じなかった薬の副作用を、だいぶ回復してから感じるようになった。目眩やふらつき、手足の軽い痺れ感、頭痛など。副作用を軽減するため少しずつ減薬することとなり、減薬すると良くなるのだけれどまたしばらくすると副作用がぶり返す。更に減らすタイミングなのかと感じて、もう一段階減薬する、という繰り返しで、何かに導かれているように、自分で何も意図しなくても自然に薬を減らしていくことができた。

起こることはただ起こっていて、意味づけするのは自分自身だと、いろんな本などで読んだし、分かっていたつもりだったけれど、「分かろうとして」いただけだったのかもしれない。
良い意味づけをして、良い捉え方をして、良い人生にしなければならないという偏った意識がずっと私のなかにあったから、分かろうと頑張っている自分に満足していたんだろう。

人生は、何かを起こすものではなく、起こることをただ観察するものなのかもしれない。
そんな事を考えたということを、観察している私がいて、その私はただ生きているだけ。何もしていない。