SITE MÉTÉORIQUE

Dépôt de Météorites

父のなかの少年

父は多分、強迫性障害を患っていたのではないかという気がする。もちろん本人に病識はなかったし、それに苦しんでいる様子でもなかったけれど、行動はまさに強迫的だった。

戸締まりをしたら何度も確認を繰り返すのが常で、指差し確認を大げさにするのが日課だった。その上、きちんと鍵がかかっているかを確かめるため、毎日戸をガタガタと力任せに揺らし、どれほど力を入れても開かないことを確認しないではいられなかった。おかげでリフォームする前のガラス戸は歪んでしまったのか鍵がかけにくくなっていた。
自分だけするのならまだしも、私や母にも同じくらいの慎重さを求めた。自分の行動が世の中のスタンダードで最善のものであり、すべての人が見習うものだと心から信じていた。

他にも、照明のスイッチを切ったかどうかが心配になるのか、もう一度つけては消す、つけては消すを繰り返した。これは歳を取ると悪化し、晩年は数十回も繰り返し、洗面所の電気のスイッチがとうとうおかしくなった。今も反応が悪いままになっている。
ベッドに敷いていた電気敷パッドのスイッチも、なかなか温まらないと言っては消してはつけるを繰り返す。そのせいで温まらないんだよと幾ら言っても全く聞く耳を持たなかった。

父はかつて中学校の校長をしていて、その頃は、夏のお盆休みの誰ひとりいないとわかっている校舎にわざわざ出掛けていき、何事もないことを確認して帰ってきた。自分ひとりで行くのならいいけれど、運転免許を持っていなかったので、その送り迎えをするのは母の運転する車だった。

母は本当に、父のおかしな要求に振り回され苦労したと思う。フルタイムで働きながら、家事のほぼ全て(アイロン掛け以外─それは父が「自分のやり方」でやらないと気が済まなかったので)を担い、私を育て、義母の面倒も見ていた。その上での父の我儘にも対処しなければならなかったのだから。

 

父のおかしな行動は他にもたくさんある。亡くなった後、開かずの扉となっていた机の抽斗を開けてみると、B5サイズに綺麗に切り揃えられた広告の紙が何百枚も出てきた。裏の白い広告紙を取っておいて、再利用しようとしていたらしい。

紙を再利用して節約することは正しいことである。きっちりとサイズを整えておくことも正しいことである。その正しさを自分に証明するために、日々せっせと広告をミリ単位で切り揃えていたと思うと、ゾッとする反面、滑稽で笑えてくる。抽斗のなかには、過去の確定申告の書類と健康診断の書類、切り揃えられた広告紙の3種類だけが、几帳面に寸分乱れず整列していた。それを父は、決して手を付けてはならない「重要書類」と称していたのだった。

ネルの散歩をするときにも全く自説を曲げなかった。毎日判で押したように同じ時間同じコースを散歩するのが日課となっていて、それは真冬も真夏も変わらなかった。いかなる理由でもそれを変えるということは最大の罪であるかのように、異常なほどの頑なさだった。

特に真夏の昼間はコンクリートが焼けるように熱くなるので、時間を変えて朝早くか日暮れ頃にしてほしいと何百回と懇願したけれど、全く日本語が通じなかった。本当に外国語で見当違いな会話をしているようで、私は他人に自分の言葉が伝わらないのが当たり前に感じてしまう癖が付き、たまに思ったとおりに伝わると逆に当惑してしまうことがある。

父が言うには「陽の当たっていないところを選んで歩かせるから」という事で、結局、昼間の散歩を最後まで続けた。今陽が当たっていなくてもさっきまで当たっていたかもしれない、こんな酷暑に散歩をさせるなんて虐待だ!と私は言葉を荒らげたけれど、その倍くらい荒らげた言葉が返ってきて、結局事態を変えることは出来なかった。ネルは可愛そうだったけれど、散歩に行けるのは喜んでいたし、幸いひどい火傷などはしていなかったようだった。一度決めてしまったことは、死んでも曲げることの出来ない人だった。それを曲げるということは、自分が間違っていたと認め、白旗を上げるのと同じだと捉えていたのか。

優しいところもあって、雷が鳴り出すと怯えてソファーの下に隠れるネルに付き合って、夜遅くまで起きていてあげたりした。父自身がとても怖がりだから、ネルの気持ちがよくわかったのかもしれない。

 

正しさを自他に訴えかけずにはいられない、その根源には深く刻み込まれてしまった不安があるのだろう。父は些細なことにも大仰に驚き、いつもどこかビクビクしているようにも見えた。心配性過ぎてあらゆる事を最悪の事態を想定して取り組んだ。

父には母親の違う姉が三人ほどいて、そのうちの一人が体が弱く、長くサナトリウムのような施設に入っていたらしいと聞いた。それに同行して、父の母親は家をしばらく離れていた。血の繋がらない娘の看病のために、実の息子としばらく離れ離れになったということらしい。
たしかその話は父本人ではなく、母から聞いた。

お母さんと離れて寂しなったなんて、昭和の男性は口が裂けても言えないんだろう。それがどれだけ父の人格形成に影響を及ぼしたかのは全くわからない。推測の域を超えることはないけれど、その異常なほど強い不安は、まだ幼いときの分離不安から来ているような気がする。姉たち、親類たちに対して通常ありえないほどの敵対感を持っていたのも、それなら何となくわかる。母を奪われたような気がしていたのではないかと。

父の母親、つまり私の祖母とは、最期まで一緒に暮らせたし、一卵性親子と言っていいほどよく似ていた。性格からものの考え方から振る舞い方まで。
父の心のなかには、甘えん坊の少年がずっとそのまま住み着いていたのかもしれない。
その少年が、電気のスイッチを付けたり消したり、不安で仕方ないよ!と訴えていたのかと思うと、ちょっと可愛らしい気もしないでもない。

父は最晩年、認知機能が著しく低下したあと、自分の妻と母親とが混乱してわからなくなっていた。私の母が出かけると不安がり、何時に帰るかをしつこく聞き質し、予定の時間よりかなり前から外へ出てうろうろしながら待ち侘びていたりした。なかなか帰ってこないと心配はエスカレートし、幹線道路で事故があったという妄想まで口走り、母が事故に遭ったに違いないとおろおろする。事故に遭ったのは誰なの?と聞くと祖母の名前を自信なさげに答えた。おばあちゃんは三十年も前に死んじゃったでしょ?と言ってもピンとこない。

祖母に再会できるときが近づいて、無意識の裡に祖母を強く求めていたのだろうか。仲良しの親子は今頃はあちらの世界で一緒にいるのかな。私の悪口でも言っているかな?

父のおかげでだいぶ苦しんだ。でも、父も苦しんでいたのだろうということは想像がつく。その上で、ちょっと滑稽な行動でいなくなった後まで笑わせてくれる、ユーモラスで、かなり変な人だった。どこにも代わりがいないほど。