多くの人はサプライズが大好きで、フラッシュモブのようなゲリラパフォーマンスまで流行したりする。バラの花弁を敷き詰めて蝋燭灯してプロポーズだとか、そこまで小っ恥ずかしいことでなくても、レストランで誕生日の人がいると明かりを消してケーキの蝋燭吹き消して、お客さん皆で拍手するとか。どうしてもそういうのが苦手で息苦しくなる。
茶番感に耐えられないというのもあるし、特別感を演出したのだから、さあどれほど感激したか見せてくださいよ!と期待通りの反応を強要されるのも耐えられない。ASDの特性としても、日常のルーティンから逸脱した「珍しいこと」を受け入れる態勢に自分を持っていくのに多大なエネルギーが必要なので、疲れてしまうのだと思う。思ってもいなかったことで驚かされ、演出されたサプライズの一コマとして周囲の皆に見つめられ祝福される──なんて場面を思い描いただけで寒気がするというのが本音。私だったらどう反応していいか分からず、半笑いのまま固まって黙りこくってしまうだろう。涙を流して感激する人が大方だというのが、正直不思議で仕方ない。
ASDの特性から見ると、日々のちょっとしたことがサプライズの連続なんだと思う。店に入って多くの商品を見ただけで圧倒される。知らない人がいるだけで緊張感が走る。電話が鳴っただけで心が縮み上がるみたいにビクッとする。それは外界から見えている姿からは想像できないかもしれない。「殻」の内側で起こり、認識され、処理される、その一連の流れは表情や仕草からは何一つ見て取ることは出来ないはずだ。外界と接していればそれだけで既にサプライズの連続だというのに、それにうんざりしているというのに、さらなるサプライズを見せつけドヤ顔で自己満足している奴がいたら、心のなかで蹴りを入れたくなるだろうな。
茶番と分かりきっているような決まり事も理解できない。そのうちご飯にでも行きましょうと、まったく行く気もないのに社交辞令として満面の笑みで語りかけられるのは恐ろしく感じられる。社会のそこかしこで日常的になされているこんな遣り取りに、一々引っかかって心が消耗してしまう。かかずらうのをやめてしまいたいけれど、うまく出来ない。
とは言え、社会で生きていれば似たような社交辞令を自分も使いこなさなければいけない場面が度々やってくるし、その気になればそれを使いこなすことのできる自分もいる。それは悪意の嘘ではないにしろ、心にもないことを言っているのは確かで、受け流せず苦々しさが残る。穢れのようなものを処理するための時間とエネルギーが必要になる。穢れを削ぎ落とすのには、自らの肌もいっしょに削らなければいけなくなったりする。それは、慣れ親しんで情が湧き、既に半分ほどは麻痺した痛みだ。
穢れをなすりつけ合うことが、円滑なコミュニケーションと呼ばれる。無駄な装飾に満ちて動きにくい鎧を着ているみたいでもある。化粧して仮面をかぶって、流行の鎧を着てガシャガシャと耳障りな騒音を立てて歩く。違う鎧を着ていると、すれ違うだけで互いにあちこちがぶつかって問題が生じる。そこで予め茶番劇と分かっている脚本を読み上げ、笑うべきとされるところで空気を読んで笑い、泣くべきとされるところで泣く。普通の人がそんなふうに見える。
だけど、自分が「普通の人」だと認識している人たちだって、自分のしていることは大いなる茶番だと感じる感性を持っているはず。それを当然として自然に受け容れられるか、納得はできないけれどしかたなく呑み込むか、家に帰ってから吐き戻してしまうか。そこにそんなに大きな差はないのかもしれない。大袈裟にその差異を叫んでいるだけで。