SITE MÉTÉORIQUE

Dépôt de Météorites

変化をしないという選択

変わらなくちゃいけない
という思い込みを捨てることが
何よりの大きな変化

できないことをできるようにならなくていい
苦手なことは苦手なままでいい
したくないことをするように努めなくていい
何も克服などしなくていい
惨めなところは惨めなままでいい
怖いことを怖がったままでいい

駄目なところ否定的に思えるところほど大事にして肯定する
むしろ絶対に変えようなどとしてはいけない

解釈だけを変えればいい
必要ないからしないのだと
それが苦手なことにこそ魅力があるのだと

整いすぎた完全なものなど
美しくはないということを深く知る

 

チャネリング

人混みで気分が悪くなったり憂鬱になったりするのは、周囲の人の想念を「チャネリング」しているからだって、誰かが言っていた。
虫の知らせとか、なんとなくそう感じたら合っていたということが確かにあると思う。それもチャネリングと言っていいのだろうと思う。

何か表現したいのに正しい表現が思いつかず、立ち止まった時。
集中して意識を内側の宇宙に向けると、概念の塊のようなものが落ちてきて、それを言語に翻訳し、文章として書き付けることがある。
多分、誰かを目の前にして声として伝えるのでは上手く行かないだろうなと思う。喋ることより書くことの方が得意だから。

極度に集中して、概念を求めると、ふっと湧き出てくる瞬間があり、それを言葉に置き換える。また、それを表現するのに最もふさわしい言葉を求め、自分を明け渡す。すると、正しい表現が湧き出してくるように脳内に表出する。そのような体験を度々してきた。それこそが書くことの楽しさ、歓びだったという点も否めない。
それはまさに、「チャネリング」をしていたということなのかも。

昔書いたものは、今読み返しても、拙いけれど私自身のエッセンスの凝縮された結晶のような輝きを放ち、自ら愛おしく思えるもの。と同時に、どこか自分で書いたものではないような、何かのエネルギーが降りてきて書かされたような感覚も、一角で確かに感じていた。


迷いのあること、答えを知りたいことに関して、自分の中に問いかけることを繰り返しているうちに、なんとなく、ぼんやりと烟る状態ではあったけれど、私は答えを受け取れているのかもしれないということに、ある時気づいた。
それでも、その答えが高次から来たものか、長い間自信を持つことができなかった。思考が自作自演しているものかもしれないとの疑いが拭い切れない。

それこそチャネリングで問いかけてみればいい! そう思って、内側の宇宙に尋ねてみた。
私はきちんとチャネリングできているのでしょうか? それともこれは私の思考が妄想しているだけですか?

《私にはできない、と信じるなら、信じたとおりになるでしょう。あなたにはそのパワーがあるから。》

受け取ったのはシンプルな一言。
できないと「信じる」からできないのだ、一気に全てが腑に落ちた。
信じることには究極のパワーがある。それは何度も見聞きしてきた言葉だけれど、どこか絵空事のままで、自分の中に落とし込めていなかった。
そのパワーを否定的に使うか、迷うために使うか、全ては自分の選択だった——それだけのことを受け入れ、納得して、素直になるのにも、ずいぶんと長い時間をかけてしまった。

 

スキピオクッキー

料理番組で、女優とコンビ芸人が、テーマに沿った作品作りに挑戦する。今日のテーマは、世界史の登場人物をお菓子で表現するというもの。

お笑いコンビは、何やらギザギザした球体のクッキーを焼き上げ、両腕で抱えるようにオーブンから慎重に取り出した。女優さんが、糸のこぎりみたいなものでそれを真っ二つにカットする。その切り口には大きな星型が浮かび上がり、その星の中に小さな人間の形が入っている。
これは誰ですか? スキピオです。スキピオって誰でしたっけ? あの、あれですよ、古代ローマの、えらい戦争した人ですわ。芸人さんたちは関西訛りを控えめにしようと努力しているようだったけれど、成功していなかった。スキピオの偉大さを、この大きな星で表現してみました!

スキピオのクッキーは額縁のようなものに入れられ、清潔感のある白いテーブルに飾られた。額縁の下部に、アルファベット型に焼かれたクッキーを「S K I P I O」と並べ、完成。
直後、誰かが白いテーブルにドスンとぶつかり、アルファベットが崩れてテーブルに散乱するというオチまでついていた。


某芸人さんのYouTube大学で、世界史の回を見てすごく面白かったんだけども、中でもスキピオさんが印象に残ったみたい。こうして夢にまで出て来たので。

劣等感がすべて

全ての苦しみの根源は 劣等感
それさえ捨てられたら世界が変わる

世界にたった一つの正解などない
人の数だけ正解があり 価値の基準も星の数ほどある

人と比べることさえ捨てられたらいいんだ
たったそれだけなんだ

それは社会に植え付けられたもので
私のものでも あなたのものでもない
ただ洗脳されていただけ

世界に 善も悪もないのだとしても
劣等感 自己否定 それだけは悪だ

たったそれだけのシンプルなことだったのに
難しく考えて分からなくなる
それさえも 難しいことに価値があるという
社会の刷り込みだった

 

似合わない色

似合う色の診断(パーソナルカラー診断)というのがあるけれど、私は明らかにブルーベースで、サマーかウィンターは自分では微妙で判断できない。

とにかく黄色っぽい系が似合わなくて、ベージュがとても難しく、野暮ったい感じになってしまうことが多い。反面グレーはいける。逆にベージュがすごくこなれて見える人、グレーを着ると地味になる人もいるから、似合うものを知るというのは大事だなと単純に思っていた。

似合う色だけを買うようにしていれば失敗は少ないし、無駄になる服も減る…というけれど、無難にこれなら似合うというものだけ選んでいると、反動が起きる。絶対難しいよ、これ似合わないって、と自分に突っ込みたくなるようなものを着てみたくなってしまう。頭はやめとけ、というのに、心が暴れる。無難なものばかりじゃつまらない。

自分と波長の合わないものを避けていると、自分の枠が狭くなったような気がしてくる。
どんな波長も、合うものと合わないものは背中合わせで、両方で成り立つ仕組み。片側に偏ると息苦しくなる。結局似合わないものを着て、バカみたいだなと自分を嗤う。でもこの頃は、それでいいのかなと思っている。その体感の方が、似合うかどうかよりも大切。

そもそも、ほとんど外出できなかったので、服も何を着ていいかわからないような状態。動物みたいに初めから毛皮を着ていたら楽なのに。
あっ、私は宇宙うさぎだった! もちろん紫のお毛々を着ていますよ。