SITE MÉTÉORIQUE

Dépôt de Météorites

弱さの武装解除

体力がない人は「体力をつけたくて」苦しんでいるのじゃない
そのままの自分を受け容れられなくて苦しんでいる
弱い人は 強くなりたいんじゃない
弱いままの自分を認めたいだけ
でも
「周囲が認めてくれたら私も私を認められるのに」では永遠に無理
周囲がどうかは究極まったく関係がない
それを自分がどう受け容れるかがすべて
多数派は少数派を理解しない
理解しようとする人もいるししない人もいる
理解されることを願ってもしょせん無駄なこと
理解されないことを前提に生きる

弱さをそのまま抱き取れば
弱さで武装しなくても良くなる
弱さを免罪符として振りかざさなくても良くなる
弱さを人質にとって周囲を脅さなくても良くなる
弱さに浸って陶酔する必要もなくなる
弱さを言い訳として利用するため
もっと自分を弱くしてしまうこともなくなる

 

汚れた脚

夜の国道X号線を、東に向かって歩いている。アスファルトの上を裸足で、膝丈のコットンのスカートを履いている。膝から下は剥き出しで、黒ずんで薄汚れている。コットンのスカートには何か柄が描かれていたけれど、意識が飽和していたせいかどんな色柄だったかが認識できない。ステンレスラックの上に三つの目玉のように並んだ信号機。赤色だけが不自然に大きく見える。他の二色の数倍は大きく滲んで見える。道路脇に規則正しく並べられた赤いコーンが、一つ二つ横倒しになって乱れている。交通整理をする人の持っている赤いライトがぐるぐると円を描く。闇の中に意味ありげに赤い色が配置されているけれど、私は意味を拒絶する。意識が遠くなるような気がして、信号の黄色にだけ集中するとなぜだか目眩は軽くなった。

私達はどこかペンションのようなところに宿泊していた。その部屋には巨大な丸テーブルが中心にドンと置いてあり、その上にありとあらゆる食材が並んでいた。グラノーラや様々な形状のパン、ふんだんな果物。世界中の朝食のすべてが網羅されたようなそのテーブルは、仲間たちに大変不評だった。丸テーブルの上に乱雑に放り出され溢れかえった食材たちは、いまにも世界の縁から落下して奈落に消える寸前に見えたのだった。地球が円盤のような形だと考えられていた時代のように。

仲間たちはそれぞれに、別のより良い宿泊先を探しに別行動しているのだったと思い出す。折角の機会なのだから可能な限り楽しまなければ損だよ。皆がそう言っていた。食べ放題みたいに元を取ろうという考え方に突然嫌悪感が湧き上がる。真っ黒になって裸足で歩き続けるのが元を取るという行為なのか。もと居た丸テーブルのペンションだって決して悪くはなかった。幼少期に母と過ごした「安心できる世界」に少し似ている気さえしてきた。テーブルの上は無秩序なようで、誰もの理解を拒むような種類の秩序があった。そして溢れてこぼれたものは自然に姿を消してくれるのだから、都合が良かった。

ペンションに帰ろうとしているのだが方向が分からず、自分を空っぽにすれば正しい方向を自ずと知ることができるような気がした。私は『汚れた脚』という歌を口ずさみながら歩き続ける。何度歌っても思い通りに感情を込めて歌えない。感情なんてものを込めようとするから歌の価値を穢してしまうのかもしれないと、ふと気がつく。


中谷美紀の『汚れた脚』もう20年も聴いたことないのに…。

 

茶番劇の達人たち

多くの人はサプライズが大好きで、フラッシュモブのようなゲリラパフォーマンスまで流行したりする。バラの花弁を敷き詰めて蝋燭灯してプロポーズだとか、そこまで小っ恥ずかしいことでなくても、レストランで誕生日の人がいると明かりを消してケーキの蝋燭吹き消して、お客さん皆で拍手するとか。どうしてもそういうのが苦手で息苦しくなる。
茶番感に耐えられないというのもあるし、特別感を演出したのだから、さあどれほど感激したか見せてくださいよ!と期待通りの反応を強要されるのも耐えられない。ASDの特性としても、日常のルーティンから逸脱した「珍しいこと」を受け入れる態勢に自分を持っていくのに多大なエネルギーが必要なので、疲れてしまうのだと思う。思ってもいなかったことで驚かされ、演出されたサプライズの一コマとして周囲の皆に見つめられ祝福される──なんて場面を思い描いただけで寒気がするというのが本音。私だったらどう反応していいか分からず、半笑いのまま固まって黙りこくってしまうだろう。涙を流して感激する人が大方だというのが、正直不思議で仕方ない。

ASDの特性から見ると、日々のちょっとしたことがサプライズの連続なんだと思う。店に入って多くの商品を見ただけで圧倒される。知らない人がいるだけで緊張感が走る。電話が鳴っただけで心が縮み上がるみたいにビクッとする。それは外界から見えている姿からは想像できないかもしれない。「殻」の内側で起こり、認識され、処理される、その一連の流れは表情や仕草からは何一つ見て取ることは出来ないはずだ。外界と接していればそれだけで既にサプライズの連続だというのに、それにうんざりしているというのに、さらなるサプライズを見せつけドヤ顔で自己満足している奴がいたら、心のなかで蹴りを入れたくなるだろうな。

茶番と分かりきっているような決まり事も理解できない。そのうちご飯にでも行きましょうと、まったく行く気もないのに社交辞令として満面の笑みで語りかけられるのは恐ろしく感じられる。社会のそこかしこで日常的になされているこんな遣り取りに、一々引っかかって心が消耗してしまう。かかずらうのをやめてしまいたいけれど、うまく出来ない。
とは言え、社会で生きていれば似たような社交辞令を自分も使いこなさなければいけない場面が度々やってくるし、その気になればそれを使いこなすことのできる自分もいる。それは悪意の嘘ではないにしろ、心にもないことを言っているのは確かで、受け流せず苦々しさが残る。穢れのようなものを処理するための時間とエネルギーが必要になる。穢れを削ぎ落とすのには、自らの肌もいっしょに削らなければいけなくなったりする。それは、慣れ親しんで情が湧き、既に半分ほどは麻痺した痛みだ。

穢れをなすりつけ合うことが、円滑なコミュニケーションと呼ばれる。無駄な装飾に満ちて動きにくい鎧を着ているみたいでもある。化粧して仮面をかぶって、流行の鎧を着てガシャガシャと耳障りな騒音を立てて歩く。違う鎧を着ていると、すれ違うだけで互いにあちこちがぶつかって問題が生じる。そこで予め茶番劇と分かっている脚本を読み上げ、笑うべきとされるところで空気を読んで笑い、泣くべきとされるところで泣く。普通の人がそんなふうに見える。

だけど、自分が「普通の人」だと認識している人たちだって、自分のしていることは大いなる茶番だと感じる感性を持っているはず。それを当然として自然に受け容れられるか、納得はできないけれどしかたなく呑み込むか、家に帰ってから吐き戻してしまうか。そこにそんなに大きな差はないのかもしれない。大袈裟にその差異を叫んでいるだけで。

 

アスパーガールと摂食障害

アスパーガールはかなりの割合で摂食障害を経験するらしい。男性のASDは多くが電車だとか戦闘機だとか歴史だとかに寝食を忘れて没頭したりするのが多いのに対し、女性のASDは自分の体型に尋常でないほどのこだわりを持ったりする。それはまさに自分自身がそうだったので納得できる。男女でこれほど違うものが同じASDとされるのが不思議なくらいだ。男性基準の判断テスト等で女性のASDが見つかりにくいのは、これじゃ当たり前すぎるほど当たり前だ。男女のジェンダー的な問題ではなくて、脳の特徴の現れ方が性別によって異なる場合が多いということで、ここで言っているのは社会的な問題じゃない。

摂食障害と言うと、成長期の母子間の共依存があったとか、大人になることを拒絶する心理があったりすると考えられる場合が多いようだけれど、私はこれには当てはまっていない気がしたので、ずっとスッキリしなかった。

アスバーガールはこうすべきと思ったら全身全霊を傾けてそれに臨むようだ。私もそうだった。若い頃、決して太ってはいなかったけれど、メディアなどでもてはやされる理想体型よりはややふっくらしていた。それは自分としてありえないことで、自分に許してはいけないことだった。運動もしてみたけれどまったく効果がなかったので、けっきょく食事制限一本槍になった。次第にエスカレートして、一週間くらいヨーグルトとおかゆを一口程度しか食べない、などという恐ろしいことをこの上なく真剣に実践していた。

当然ながら、行き過ぎると生命は危機を感じて無理にでも食べさせようと足掻くようになり、少しずつ食べる量を戻していこうと手綱を緩めた途端、過食が始まる。ひとくち食べだしたらもう止まらない。私は不器用で、食べたあとで戻すということがどうやっても出来なかった。それは今考えると不幸中の幸いで、割合に回復が早かったのもその御蔭だ。
けれどその当時は、吐き戻せないのでまた太ってきてしまい、頭をかち割りたいほどの自己嫌悪を感じた。そしてまた絶食を始める。それを何度繰り返したか記憶がない。

そんな自分をどこまで許せるのか、またどこまで自分をコントロールできるのか、という自分自身との終わりなき闘いだった。そのためには手段も選ばず、どんな醜悪で残酷なことでもする。他の人たちが普通にできることが上手くできず、社会に居所を見つけられず、そんな自分を正しい形に改造するために、意志の力で自己像を創り変えることさえできれば、全てが思うままになり、生きることも難しくなくなるに違いない。心も体も繋がっているなら、体を理想的に改造することできるなら他の全ても改造できるはずだ。
私は愚かにも、自分を創り変えることができると本気で信じていた。自分を抹殺することができると信じていた。

そして実態のない理想像を纏った怪物になり、自分自身を捕食して生きるようになる。どんな場合も成れの果てはそこに行き着く。それは魂の緩やかな死でしかなく、ずれてしまったいのちの歯車を元に戻すだけにすべての生命力を消費する。

過去の私に伝えたい。中年になったら胃腸も弱くなってすぐ胃もたれするようになり、今度は太りたくても太れないようになるのだから、血を吐くようなつらい思いをしてまで頑張るなと。理想という鋳型に自分を押し込めることが出来ても、それは形だけのことで、中身は何ひとつ矯正できない。むしろ鋳型からはみ出して無惨に切り取られた見えない何かが、常にあなたを困らせ、あなたに付き纏い、あなたに復讐をするようになるかも知れないんだよ、と。

 

よく見えるのが恐ろしい

感覚過敏などについては人によって現れ方が千差万別で、あまりにも違うために人の話を聞いても共感できるものではないのだけれど、それに対して困っていたり逃げ回っている様子は共通している点が多くて、同じような人がいると思うと心強かったりする。
女性の自閉スペクトラムについての本を幾つか読んでみたけれど、医療や支援、研究に携わる人の書いた本は、私には何ももたらさなかった。やっぱり視座が全く違うんだ。アスパーガール当事者が書いた、たくさんの当事者の声がコラージュされて載っているものが一番良かった。中でもたびたび手に取ってしまうのは『アスパーガール』『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界』の二冊。
結局は、当事者の声が一番参考になる。

「眼鏡の度は弱くしておくといい」というのをどこかで読んで思わず膝を叩いてしまった。私がまさにそうだから。それについて共感できるの初めてだから感激しちゃった。世界があまりにくっきりと見えてしまうと、情報過多になり、自分がどんどん縮こまっていくような感覚に陥る。解像度の高すぎる情報の津波が意識に押し寄せてきて、溺れるような感覚になる。歪みのない「事実」というものがくっきりと立ち上がり、それに一方的な暴力を振るわれるようでもある。「よく見えるのが恐ろしい」と言って、納得はできずとも、そうなんですね…とそれなりの理解を示してもらえることだって、今までの人生で有り得ないことだったから。「は?」という困惑と拒絶の反応しか返ってこないのが当然だもの。

よく見えないほうが落ち着くから、どうしても必要な場面でしか眼鏡はかけない。外出する時はよく見えたほうが便利なことが多くても、やっぱりデフォルトでかけていない。買い物で商品があふれかえる大きな店などに入ると、圧迫されて息苦しいような感覚。眼鏡無しならそれほどでもなく、どうにか耐えられる。よく見えないから必要なものを探すのに手間取ることもあるけれど、私はそこまでひどい近視ではないのでなんとかなる。
人がたくさんいる環境も同様。人には気配というものもあるから、視覚だけではまったく防ぎきれないけれど、ぼんやりと見えているというだけでもだいぶ楽にはなる。

聴覚過敏で耳栓をしているなんて話はよく聞くし、視覚過敏では蛍光灯の光が苦手とかいうのはよくあるけれど、この眼鏡をかけられないという件では初めて同様の意見を知ったので、ものすごーーーく気持ちが楽になった。やはり似て非なるというようなケースを耳にするのと、ほぼ同じというケースを知るのとでは安心度合いが違うんだ。だから、色々な人の色々な症状(というのは不適切かな)の詳細を知るというのがとても大切だと思える。

蛍光灯は気分のいいものではないけど生活の中で避けては通れなかったので、慣れてしまって麻痺してしまったという感じ。でも人の肌色がとても醜く映るから大嫌い。LEDのライトが普及してきた頃、LEDから発せられる光は「影の色」が不自然で、すごく気持ち悪いと感じて嫌いになった。これも最近はだいぶ麻痺して感じなくなってしまったけれど。気のせいかとも思ったけれど、影の色がどうにも気持ち悪い、本当の影の色と違う気がすると言って、解ってくれる人がいるだろうか?

私達にとっての適応というのは、麻痺させるということと同義なんだ。麻痺させて感覚を遮断すること。それを一元的に成長とか進歩とか成果とか言って喜ぶ。
あまりにも麻痺させたままでいると、精神の中枢まで浸潤して、生きるための最も根源的なエネルギーまで麻痺してしまうんだよ。