SITE MÉTÉORIQUE

Le Dépôt de Météorites

意味づけという驕り

いろいろなことがタイミング良く、あるいは悪く、重なって起こることがよくある。この物事の重複がなにか深い意義を持っていて、起こるべくして起こっているのだと御大層に考えることはしたくない。そういう驕りは大嫌いだ。

事柄と事柄を安易に無遠慮に結びつけて、まるで新たな星座でも作るみたいに、恣意的にあるひとつの図形を浮かび上がらせるのは、あまりに粗雑で品性に欠けている気がする。この偶然は偶然ではなく必然であり、きっとこれこれこういう意味を伝えてくれているんだ等々。何かをただ一つの正解と結びつけて単純に片付けることに対していつも感じる、激しい吐き気に似た不快。わかったつもりになるのが一番愚かなこと。意味に安っぽい帰結を纏わせて、プラスチックのように簡単に形状を捻じ曲げ、使い捨てる。そうならないようにしたいんだ。

かといって、物事は何の脈略もなくすべては完全なる偶然として時空に分布しているだけだというのも納得し難い。生命は何の意味もなく偶然生まれ偶然死んでいくのだというのと同じくらい。宇宙は何ひとつの秩序もなく膨張しつづけているのだというのと同じくらい。関連はあったとしてもその意義はわからない、わからないということに真剣でありたい。事象を整理しないままに浮遊させておく。短絡的に理解しようと形を歪めないように。

 

 

今季最低気温の朝

母が体調を崩して入院した。生命にかかわるようなことではないし大袈裟に騒ぐほどでもないのに、ほぼ安定していた心の状態がまた少し不安定になってしまった。嘘みたいに時間をショートカットして昔に戻ってしまった感じ。調子に乗っていたが全然治っていなかったんだと思い知らされた。

母がいないと家に独りぼっち。兄弟もいないし、従姉が割と近くにいるもののかなり歳上なのでそれほど親しくしていたわけでもない。そもそも従兄弟の中で私は最年少。年老いたら誰も頼れない。未婚で子供なし、さらに病気持ちの私は、このままでは将来完全なるおひとりさままっしぐらだと思うと、湧き上がる不安に押しつぶされそうになる瞬間があるのは正直なところ。

そんな折に、急激な冷え込みで家の外の水道管が破裂した。
対策はしていたのだけど、ちょっと気が緩んだ翌日の朝予報よりも冷え込みが強く、十時半ごろ溶け出した水が吹き出した。すぐに業者に電話するも話し中ばかり、ようやく繋がったところも混雑していていつ行けるかわからないと言う。

止水栓がどこにあるかも知らなくて、噴水のごとく生真面目に吹き出す水を目の当たりにオロオロとネットを調べたりして、ようやく玄関先の地面にある蓋を開け止水栓を発見した。なんとかその日のうちに業者さんが来てくれ、来週水道管を取り替える工事の予定。凍結はきっかけであって、元々かなり老朽化していたのが根本的な問題とのこと。業者さんも凍結による破損で大忙しだとか。
それまで止水栓を閉めたままの生活。一日一度だけ止水栓を開け、一日分の水を溜め込んでまた閉める。

自分の調子も悪く、母もいないときに限ってなんでこんなことが!タイミング良すぎないか? 水のない生活を送ると当たり前ながら、いつも蛇口をひねればふんだんに水が出る生活が決して当たり前でないことに気付かされる。
以前もらっていた頓服薬を飲みながら、なんとか今日をやり過ごす。これもなかなか面白い体験だと思えば面白いものになる。結構楽しめている自分を発見して、それもまた面白がってみることにする。

 

自由という名の刑

選択肢が多いほど選択に迷う
あれこれ可能性が多いほど
選ばなかった可能性に後悔も迷いも残す
自由が多いほど自由に苦しめられる
情報が多いほど情報に縛られて失う
何を選択するか突きつけられる
まるで剣の切っ先を向けられているように
自由という名の刑に処せられている
選択という義務の奴隷となる

 

語学嫌い

外国語を学ぶために教室に通っている。初めての日に少し緊張して教室に向かうと、既に授業は始まっていて、内容もかなり先にまで進んでしまっている。私は右も左も分からないまま、萎縮して席についている。教師に指名され、答えを求められるけれど、全く解らず答えられない。教師の白く平たい眼差し。周りの受講者たちの、口元だけに浮かべた軽蔑の笑顔。

こういった夢を頻繁に見る。高校のときに語学が苦手と意識してから、ずっと続いている悪夢。英語だったり仏語だったり韓国語だったりすることもある。
中学までは、教科書があり、それに沿って教師が授業をしてくれた。高校に入った途端英語の授業はほぼ全て、指名されて文章を音読し、次にそれを訳し、間違ったらそこを指摘されてネチネチいじめられるようなものになった。私の通った高校だけかもしれないけれど、予習していかない限り全くついていけないし、指名された人がすんなり出来てしまえば、ほぼそのままスルーされてしまい何の指導もない。黒板に書かれた文字は一時間でたった一行だけなんて事もしばしばだった。新しい単語はどれで、何が重要な構文かというような授業はないに等しかったので、そんな中学までと全く異なるやり方についていけないということもあったし、ひとりひとりが全部辞書を引いて単語を調べ、自力で読解しなくてはいけないやり方を疑問に感じた。

自力で読解できること、正解を持ってくるのが当然で、答え合わせだけをするのなら独学と同じで、授業する意味なんかある? 私は昔からひねくれたところがあって、納得できないとそれに黙って従うことがどうしても出来ない。そのやり方に疑問を持ってしまった以上、素直に言われたとおりにすることに甚だしい嫌悪感を感じ、勉強する意義をこれっぽっちも感じられなくなった。そして気づいたら、英語が吐き気がするほど大嫌いになっていた。

大学に入っても同じだった。フランス語を選んだけれど、一年目は中学の英語と同じように教師が授業をしてくれて、それに沿って学べばよかった。だから授業は楽しかったし、成績もそこそこ良かった。二年目に入ると突然、指名されて読んで訳して…という高校と同じやり方になった。これは日本の語学授業のスタンダードなの?
苦手とか嫌いだと思っても、我慢して頑張れる人も多い。私は何故0か100かみたいに、極端に振れるんだろう。嫌いと思ったら油が水を弾くみたいに全く吸収しない。

もう少し効率的な学び方があるのではと思うけど、そう思うのは私だけで、独学に近いような弛まぬ努力が一番能力を伸ばすという理由でこんなやり方が採択されているの? それとも、教える側にとってそれが一番ラクなやり方だから?
努力根性で乗り越えるのが美徳とされ、素直にそれに従うのが正しいと信じる。言うとおりに動き、無理難題をふっかけても耐え抜いて成果を出す。そういう人物が社会では必要とされ、必要とされる人物を作り出すのが教育。だから本質として、自ら努力して耐えるように仕向けなければならない。そんな気がしてならない。もっと効率的に語学を学ぶ方法があったとしても、楽をするより努力根性で頑張ることの方が価値があるとされていて、その価値に従順であることを教育するほうが大事となっているように思える。

もっと楽しんで気軽に学べるやり方があったとしても、それではひたすら耐えて頑張る人間を製造するための「教育」としては、意味を持たないのでは。
そんな教育のままで良い訳がない。枠からはみ出した規格外の人だけがなにかを変革し、新しい地平を創造してきた。これからは全員が規格外となって、それぞれの地平を生み出す時代となるはず。そうしなきゃいけないはず。

とは言っても、私に語学のセンスが無いらしいということは変わらないのかも…。センスがない人に対して学習を強いる、ということも無くなっていくのか? でもセンスが有るかどうかを自己判断するのは難しい。自分で可能性を閉ざすことにもなる。

楽しんで取り組むことが最善の結果を出すことは明らか。学びを楽しむということや、興味のあることを自ら学んでいくことの価値はよく語られているけど、興味の持てないこと、苦手なことをどうするのかという側面は何も語られていない気がする。
嫌なことでも我慢してやるのに価値があるという古い価値観を無くさないといけない。いくら楽しめることを自由に追究できても、やりたくないことを無理強いされる部分も残っていたら、学びを嫌いになる土壌がそのままになってしまうと思うのだけれど。

小学校四年生くらいまでは皆が好奇心の塊りで、大人も驚くような疑問を次々にぶつけてくるけれど、五年生を境に、それがテストに影響するかどうか、大人からの評価につながるかどうかを優先するようになり、自由な好奇心を自ら封印してしまうのだと、何かの記事で読んだ。疑問を抱くことは得になることではなく、バカみたいなことを考えていないで勉強したほうがいいと、そういう考えになるわけだ。これまでの教育がどういうものなのかをすごく端的に示している気がした。

 

ミントグリーンの劣等感

中学生の時、たった一度だけ盗みを働いたことがある。盗みと言っても大したことではなく、教室の後ろのロッカーの辺りに誰かが置き忘れた、小さなハンドクリームの容器を持って帰ってきてしまっただけのこと。可愛いミントグリーンの詰替え用のクリームケースに、淡いグリーンの色がついたクリームが入っていた。誰のものか判らなかったけれど、私はなぜか咄嗟にそれを鞄にしまい、そのまま下校した。
何故そんなことをしてしまったのか、自分でも不思議だった。その可愛いミントグリーンを見つめては、当時の私にはうまく言語化出来なかったモヤモヤとした不快な感情に囚われた。

その日のことを思い出すのが嫌になり、しばらく経ってそのクリームケースを捨ててしまった記憶がある。
それは私にとって、女子力の象徴のようなものに感じられ、そのクリームの持ち主に比べて女子力に欠けているということを知らしめられた気がして、悔しかったのかもしれない。悔しいと言うより、もっと自虐的な気分だった。その持ち主に女子力をあからさまに比較され、あんたは劣っているよと烙印を押されたような気がして、ひどく狼狽えたのだと思う。

おしゃれな絵柄のついた可愛いクリームケースを用意して、そこにクリームを詰め替えて、出先でもお肌のケアをする。私はそんな手間のかかることをしようと思ったことさえなく、同学年の女の子がそんなことを普通にしているということが衝撃だったのだろう。そして負けたくないという気持ちが湧き上がり、ちょっとした嫌がらせで復讐した。クリームケースを見つけて鞄にしまうまでのほんの一瞬に、頭の中にこのような連鎖する思いが駆け抜けた。

結局それは誰のものだったかわからないままで、持ち主もただどこかで無くしてしまったと思っているだけで、まさか私が盗ったのだとは気づかなかったはず。私が勝手に、誰かわからない相手に対して劣等感と罪悪感を抱き、その緑色の容器にそれらを込めて、手元に置いて何度も何度も眺めていたのだ。

 

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