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隕石の堆積場

同類意識

プレゼントをもらうのは誰しも嬉しいもの。だけど必要ないもの、むしろ嫌いなものをもらったら──
「まとも」な人なら、それが苦手だなどと間違っても口にせず、ありがとう!これが欲しかったの!などと積極的に嘘さえつくかもしれない。私も、そのくらいのことはできる。できるけど、その後で違和感にとても苦しむ。そういうものなんだから、みんなそうしているから、と片付けることができなくて。

苦手な食べ物などもらって、食べずに捨てるのにも罪悪感を感じてしまう。当たり前のことを当たり前とはどうしてもやり過ごせない。
それをくれた人は100%良いことをしたつもりでいる。もらった方は罪悪感を感じる。捨てられるものも無駄になる。我慢して食べれば自分が苦しい。嫌らしい言い方だけど、得をしたのはあげた人の方。もらった方は苦々しさを押し付けられたような気分になるというのが、偽らざる正直な気持ち。

だから贈り物をするのも、されるのもすごく苦手だ。相手が喜ぶかどうかもわからないのに、多くの人が好むものだからと押し付けられて、それを喜ばないのは喜ばないほうが悪いと言われているようで。善意で贈られたものなのだから喜ばなくてはならない、せめて喜ぶ演技、感謝する演技をしなければいけないのが苦痛。
それを贈ってくれた心遣いには感謝したいと思うけれど、諸々のわだかまりが同居するために、自分の不純さが許せなくなる。

また、こちらが贈る側になるときも、独りよがりになっていないかどうか、いつも確信が持てずに迷う。自分が借りを返したいだけの、自分のためだけの贈り物になっていないか、考えてしまう。
贈り物の文化なんてなくなればいいと思う。その一方で、相手の綻ぶ顔を思い浮かべながら贈り物を選ぶ喜びがどんなものかも、良くわかる。

同じように、サプライズの演出も好きになれない。よくプロポーズに様々な演出をして未来の花嫁を喜ばせようとするけれど、私だったら白けるだけ。さあここ喜ぶところですよ!と押し付けられて、それ以外の反応をしたらこちらが悪いみたいになる。こんな自己中心的なプロポーズがあるだろうかと思う。

相手がどう反応するかが確信の持てる状態でなら、贈り物もサプライズもありうるのだろうけど、相手の反応がわかると思い込むこと自体が、盛大な勘違いかもしれないし。

相手の反応を決めつけることから、多様性の否定が始まる。相手が自分と同じような感じ方をするだろうと考える、その想像力の不足が、苦しみを生む。

こんな些細なことでも、多数派の共通認識による横暴と感じられる、私みたいな人間も決して少なくないと思う。けれど、同類だと思った時点から、その範疇からさらにはみ出す人を生み出すから、どれほど小さな同類意識も持たないようにしたい。

 

永遠の命

『還魂』 Netflixにて視聴。

魂が自分か、肉体が自分か。
自分の魂が誰かの肉体に入り、誰かの魂が自分の体に入ったら、どちらが本当の自分なの? 意識は別人の体の方にあり、血や遺伝子は元の体の方に残っているわけで。

血による生体認証のシーン。一族に代々流れる血によって認証され、秘密の倉庫の扉が開く。魂は別人が入っていても問題なく開くわけで。
違う肉体に入っていても、瞳を見つめれば、あの人は自分だと分かってくれるのだろうか?

「違う魂が自分の体に入っている間に子供を作ったら、生まれた子は自分の子と言えるのかどうか」というのは強烈な問い。心は否定するだろうけれど、たしかに血は流れている。
私は肉体より魂と同化して生きてきた気がしていて、むしろ肉体を軽視しすぎたかもしれないという反省がずっとあった。遺伝子で繋がったご先祖様を敬うという感覚がよくわからなかった。魂の故郷を同じとするグループソウル、ソウルメイト等が本当の家族だという気がしていた。
でもこの強烈な問いで、血というものの呪縛に近い愛が、どこか美しいものに見えてきた。

いわゆるゾンビものじゃん?と片付けられない深みがあり、哲学的な問いが根底に流れている気がする。
『イカゲーム』が、ただのデスゲームものと片付けられないのと同じく、覗き込めば奥行きが深く、物語には嵌まり込んでいくと闇のなかに綿密に張り巡らされた寓意が見えてくるという構造。
人智を超えるような画期的な技術が開発されたら、それによって得られるものの大きさに、過酷な修練を越えて術士となった人格者たるべき面々が、臆面もなく、欲望むき出しに、醜い闘いを繰り広げる。
還魂術を司る氷の石は、まるで核兵器みたいだ。危険なだけで、存在するだけで人を幸せから遠ざける。
車を乗り捨てるように、次々と新しい肉体に魂が乗り移っていけば、永遠の「命」を得られるとして、それで何が変わるだろう。
何を捨てられるかが、命の何たるかを指し示す。

チョン・ソミンがとっても可愛い。ギロッと睨む顔が特に。『赤と黒』で見たときはまだ幼さが残るフレッシュさだったけど、随分演技に磨きがかかっていて流石と思った。
総帥とキム・ドジュの、大人のぶきっちょすぎる恋が可愛くて仕方なく、若者たちの恋模様よりずっとおもしろかった。こういう箸休めがまたすごく上手いんだよな。

最終回は消化不良だけど続編あり。

 

羨ましがられる条件

近くに住んでいるけれど疎遠になって久しい幼馴染が、私のことを「羨ましい」と語っていたと、人伝に聞いた。私が働きもせず、家にいて悠々自適の生活をしているから、みたい。
すごく単純なことなのに、不意に盲点を突かれたような衝撃を感じた。

気力体力ともに充実して、毎日バリバリ働いて、社会に貢献できるということのほうが羨ましがられる条件として真っ当だと、未だに信じ切っていたということに気づいた。

私から見れば、彼女のほうが羨ましい。羨ましいと思われるにふさわしいと思っていたんだ。
社会参加できていない、何者でもない肩書のない自分。親の築いた財産で食わせてもらっている自分。それを恥ずかしく思い、他人を羨むのが真っ当なあり方。だけど、するべきことができないんだからしょうがないよね、叱りつけないで味方になり、慰めてやらないとね。それが自分を受け入れるということだった。今まで。
そんな私を羨ましいと思う人がいるなんて。単純に、青天の霹靂みたいな驚き。

一方で、毎日身を粉にして働き、自分の時間もなく、忙しく魂を削って生活している「社会人」たちが、私のような人間を逆に羨ましいと思ってしまう現代社会は、確かに狂っているのだと実感もした。
うつ病になって休むことのできる同僚を羨ましく思う、なんて話も耳にしたことがある。

この社会の教育からして、辛くても歯を食いしばり、上の者の言うとおりに動き、自分を殺して歯車となることに長けた人間を大量生産するシステムでしかない。そうやって生きないと、社会から抹殺されるという暗黙の脅迫。
はみ出すと、上の者に叱られるのならまだしも、同じ境遇の仲間たちに叩かれるということには、矛盾以外の何物も感じない。

実は、羨ましいから嫉妬して、貶して否定していたんだ。

私は人に羨ましく思われる存在なのだ、人がしたくてもなかなかできない素晴らしい生活をしているのだと、肝に銘じよう。