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隕石の堆積場

黄金の部屋

陽だまりで、愛犬のネルと戯れていた。南の空低く太陽が横切り、ガラス越しに長い影が伸びている。板張りの床の上、影が踊るのを見つめる。ポメラニアンのネルはベージュ色の毛色だったけれど、陽光に細くふわふわした毛の一本一本が煌めいて、黄金でできた極細の糸のようだった。

黒曜石のような瞳が見つめている。マミー、何か忘れていませんか? そんな訴えが意識に直接聞こえてくる。そうだった、ご飯を出すのを長い間忘れていた。どれほど長い間忘れていたんだろう。納戸部屋に入り、奥の方からドッグフードの袋を引っ張り出した。
かつてネルが愛用していた、懐かしいステンレスの器にフードを出してやると、喜んで顔を突っ込んだ。夢中で食べているネルの被毛が、体が揺れるたびにまた光の中で輝く。ご飯をあげたのは何年ぶりだろうと、ふと考えた。ネルが天国に召されてもう数年経つことに、はたと気づいた。

この陽だまりの部屋は天国なの? 妄想の世界なの? ここを離れ、現実に戻らなければならないのだろうか。果たして現実とはなんだったんだろう。次第に曖昧になり、自分がどこに居るのかわからなくなった。現実というものが基軸を失い、柔らかな粘土で形成されたようなものに感じられる。指一本で捻じ曲げられる、可塑性の高いただの物質。

今居るこの部屋が本物の真実であり、日々の現実の方こそがうたかたの夢であることに、深く気づいた。心の奥に静かな雷槌が走った。毎朝目覚めると、かりそめの世界へと出勤していくのだ。歪んだ眼鏡をかけながら。

 

壮大な人体実験

山崎製パンが競合他社を告発するような声明を出したことがあった。他社はイーストフードなど添加物を不使用と謳いながら、実際は原材料表記をしなくても済むような他の方法で添加物を加え、事実上はイーストフードを加えているのと同じようなものであるのに、無添加と大々的に表記して売り出すのは顧客を騙しているのと同じだ──というような内容だった。

それを聞いて、他の人はどう感じたかわからないけれど、私はなおさらヤマザキの姿勢に疑問を持った。
他社は確かに不使用と謳いながらうまくすり抜ける術を見つけて、イーストフードと明記しなくていい方法を編み出したのかもしれないし、それは確かに良いことではないと思う。けれど、顧客が安全性を強く求めているという声に向き合った結果だし、コストと品質の面で採算が取れずに仕方なくしたことなのかもしれない。その辺りをクリアできるなら、安全性を重視し、高めていく努力をしていく「可能性」が見えないわけではないな、と感じた。

それに対して、ヤマザキイーストフードは危険なものではないと言い張り、他社を貶めるような形で自社の正当性を主張した。それが事実かどうかということ以上に、その姿勢そのものにげんなりした、というのが正直な気持ちだった。
この会社は、パンの安全性が強く求められる時代の変化に完全に乗り遅れているし、これからも安全性を重視する姿勢は全く期待できないに違いない。もともとこの会社のパンを好んで食べることはなかったけど、これからはもっと食べることはないだろうと強く思った。
より添加物を減らす、あるいはより安全性の高い添加物を使う競争をしてほしい。
もちろんこれはただの個人的な意見で、違う考えの人々を否定するつもりは毛頭ありません。

この件がきっかけかどうかはわからないけれど、添加物は必要で、少しも怖いものではない、無闇にに怖がるのは化学的知識がないからだとか、保存料も農薬も品質を維持するためには必要なもので、むしろありがたいものだ、というような論調の記事が雨後の筍のごとく出て、恐ろしく感じた。
地球温暖化はフェイクだ!環境汚染なんか何の問題もない! とかいうのになんだかそっくりな気がして、いったい世界で何が起こっているのか、気味が悪いと感じた。


以前には、今よりも食品添加物を気にして、徹底的に避けるようにしていた時期もあった。若い頃摂食障害を患って、それを治すために始めた食事療法をきっかけに、一時はかなりシビアな管理をしていた。その頃は市販のパン等は一口も食べることはなかった。
最近は随分甘くなって、いろいろ食べても平気になってしまったけれど、当時は感覚が鋭敏になっていて、市販品はなんとなく薬臭く感じて、食べたくとも食べられないという状態だった。添加物探知機だと言って、家族はよく笑っていた。

添加物が添加されるようになって高々数十年。安全だと言い切るにはまだ短すぎるのでは。それに、病気を引き起こすといった明確な因果関係は証明しにくい。あらゆる要因が複合的に作用するのに、添加物のせいかどうか、そこをはっきりさせることは不可能に近い。だから食べても大丈夫なんだと開き直るのではなく、現在もまだ人体実験を続けているような状態なのだということを、常に頭のどこかに置いておかなければと思う。

あまり気にしすぎたら、食べるものがなくなっちゃう。神経質になりすぎたらストレスになって体に悪いから、なんでも偏りなく食べればいいんだ──等と言う人がよくいる。これほど典型的な思考停止状態って他にある?

 

深夜の壁掛け時計とブルーベリー

突然、母に起こされる。3時半だよ! 遠慮のない大声に目が醒める。幼い子供のような、思慮の痕跡が全く感じられない率直な声だった。母からそんな声が聞かれることは初めてのような気がした。
深夜の3時半。外界は静かな闇に覆われている。引き替えに部屋の中は、母の賑やか過ぎる振る舞いで、いつものLEDライトの光量が二割増しに感じられた。
冬の夜中に窓をガラガラと開け、縁側へと出て、なぜか母は爪を切り始めた。突然ケタケタと笑い出す。正気を失ってしまったとしか思えない。私は表情を失ったままで凍りつき、母の様子をただ見つめていることしかできなかった。

壁の時計を見る。本当に3時30分を指しているだろうか。これはきっと現実ではないだろう。
時計の針は確かに3時30分を示す角度にあった。しかし、1から3までの数字だけが忽然と消えていた。4から12までの数字を見つめているうち、緑色の縁取りのある見慣れた壁掛け時計は、ぐにゃりと形を歪めていき、すべての角度も意味を失っていった。

庭にはブルーベリーの木があった。人間の背丈ほどの高さで、大きな実がたくさん生っている。通常なら1センチほどの実が、数センチの大きさに感じられて、小さな違和感を覚えた。実は確かにプルーベリー色はしていたけれど、不自然なほど透明感があり、内部から微かに発光しているようだった。

闇に目をこらすと、木の天辺のあたりに、膨らませた風船くらいの大きすぎる実が一つある。その実は少しずつ膨らんでいき、内部の圧が刻一刻と増していくのが克明に見て取れた。
そして想像の通りに破裂した。音はなかった。内部から無数の小さな実が現れて、弾け飛ぶわけでもなく、瞬時に木全体に拡散した。本来あるべき位置を本能的に知っていたのかと思うほど、何事もなかったような済ました顔をして、私たちはずっとここで生っていましたよと言わんばかりに、彼らは葉陰にじっと身を潜めていた。

 

本物のスピリチュアル

夢見がちにふわふわした理想を追い
醜いものから目を逸らし 無かったことにして
アセンション後の美しい世界を待ち侘びるのがスピリチュアルなんじゃなくて

現実の泥にまみれて闇を直視しながら
同じだけの光を心に留めること
それが本当のスピリチュアルな在り方なのだと思う

そう思ってはいても
ふわふわした世界に逃げ隠れたくなる
それもまた ありのまま認めよう

 

ファミレス神天戸店

不思議なテレビCMが流れていた。何の宣伝かわからないけれど、車の運転席から見える光景を、ひたすら淡々と映し続けているものだった。赤信号で減速し、止まる。横断歩道を渡っていく子供たち。発進すると緑の並木道に差し掛かる。右折する際、待てども待てども対向車が途切れない。運転者の視線の先を延々と映し続けるだけなのに、なぜだか目が離せない。

私はいつの間にかその車の助手席に乗っている。運転しているのは父だった。現実には父は運転免許を持っていないので有り得ないこと。無言のまま、フロントガラス越しに移り変わっていく光景を、自分とは何の係わりもないスクリーンの中の映像を見るように、突き放しながらぼんやり見つめていた。見知らぬ街を通り抜け、家に向かっているのだけれど、いつまでたっても家の近辺に辿り着かず、聞いたこともない地名のなかを走り続けていた。

信号で止まった時、とあるファミレスの目の前だった。店の名前が目に飛び込んでくる。「神天戸店」と書かれている。その地名を見た瞬間、間違った道に迷い込んでいるということを、なぜか悟った。父は自分の過ちを決して認めず、自ら引き返すことのできない人だ。いつもはうるさいくらいに饒舌な父が、黙りこくっているのがその確かな証拠。

次の瞬間、私はファミレスの店内で、明るい窓際の席に腰掛けていた。信号待ちをして数珠繋ぎになっている車たちが、分厚いガラスの向こうによく見える。テーブルの向こうには、一人の少女が俯いていた。高校生くらいのその少女は、かつての自分自身だということがすぐにわかった。私たちは空っぽのテーブルを挟んで、ずっと押し黙ったままだった。

少女は俯いたままで、時折思い出したように窓の外を眺めた。ふてくされた態度は誰かを非難し責め立てたいからではなく、ただ自分自身に腹を立て、その怒りをどう処理していいかわからないからだった。そのことは手に取るようにわかる。
注文したはずの料理はいつまで待っても届かず、私たちは相変わらず、塵一つも置かれていない艶々に磨かれたテーブルを見つめながら、沈黙を噛みしめている。


インナーチャイルドと向き合っていたんだろう。そこに言葉は要らなかったんだ。神天戸って文字を確かに見た気がしたのだけど、なんて読むのだろう?

 

愛と欲望の境界線

韓国映画『スカーレット・レター』を観た。ハン・ソッキュイ・ウンジュ主演。

愛と欲望の境界線はどこにあるのか。欲望と愛はどう違うのか。そもそも、特定の誰かとの愛とは実在し得るものなのか…。
欲望に身を任せる人々。誰かを狂おしく求める人々。皆がとても愚かで、倫理に欠け、自分勝手に生きている。
ストーリーの表層ををかいつまんで説明したら、なんとも形容しがたいほど馬鹿馬鹿しく愚かなんだ。車のトランクの中でいちゃついていたら蓋が閉まって出られなくなるなんて、阿呆らしいこと極まりない。
彼女がトランクを閉めたのは、心中を目論んだ確信犯なのか。

そこに閉じ込められた男女がそれぞれに勝手な夢を見て、互いに言葉を交わしながら全く食い違う世界を見つめ、狂気の底を覗き込む様には、とてつもない凄みがあった。自分の恥部を顕微鏡で拡大して見せられているような気分になった。

サスペンス映画だと思って観たらちょっと混乱するかも。これは完全に愛と欲望の映画だから。
主人公が担当する刑事事件の内容と、自らの人生の出来事が重なり合い、複雑な和音を奏でるように展開していく。互いに映し合う鏡となって二つの世界は並走する。

人間には欲望という名の虚無がある。ブラックホールのようなとんでもない引力を持って何もかもを吸い込んでしまう闇。自分の奥深くにあるその闇を、光で満たそうと足掻くことが、生きるということそのものだったりする。

狂おしいほど愛しているという相手は、その存在を認知した途端に光を吸い込まれ、ただの闇となる。どんな光も吸い込んでしまうのがブラックホールだから。その闇を光と勘違いして、求め続けるだけなんだ。相手は実在しないも同じだ。闇が闇を求めているだけなんだ。

「結婚」というものの形骸化も一つのテーマ。主人公の過不足ない生活は、まるで生活感のないモデルルームのような部屋で営まれ、過不足ない妻は、妊娠すると夫に黙って子供を堕ろす。それにも理由があった。
全員が、心に秘めたブラックホールを神のように崇め、それに帰依するが如く生きている。真っ赤に血塗られた夢を、ほとんど無意識に追いかける。それが生きるということだから。

イ・ウンジュさんの遺作となった作品だそう。まだあどけなさが僅かに感じられるほど、映画の中の彼女は若く、輝いていた。その若さの煌めきが、それはもうきらきらと目映く虚無のまわりを飾り立てる。彼女の強烈な光と闇、それだけでこの映画の本質はもう完成されてると言っていいくらい。こんな素晴らしい女優さんが夭逝したことがとても残念でなりません。

 

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