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基礎代謝 = 魂が呼吸するために最低限必要な心の活動

花を飾るということ

季節が来たら自然に枯れていく花を、盛のときに切り取って愛でるということが、理解できないわけではないけれど……。
以前にも触れたことがあるけれど、切り花を飾るということがどうしても苦手。なにかが違う花の香り。どこかが違う緑の吐息。そこに感じるものをうまく言葉にできない。


花を切り取って、大地と切り離された瞬間、花はあるがままに朽ちることを許されない。生活ゴミとなって捨てられる運命にすり替わってしまう。徐々に遅くなり、やがてゼロに限りなく近づいていく鼓動。じわじわと腐りゆく姿を眺めているということに、慣れることができない。
切り取られることを目的に薬品漬けにされて栽培され、流通する切り花はなお一層。それは、あらかじめ失われた命の残り火をさらに搾取するということ。なぜだろう、そんな思いを抱かずにいられない。


花は全体の意識の中で、切り取られたことを恨んだり悲しんだりしているわけではないだろうと思う。
切られたことが可哀想だからというのではなく、植物の生命のサイクルの、完全無欠の結晶のような美しい調和から切り離され、人間の生活から排出される汚物のなかに絡め取られてしまうことが、可哀想に思えるのかもしれない。
そんなことを花に強いている自分が、ひどく傲慢な存在に感じることが、嫌なのかもしれない。

 

マシュマロに溶ける

静かに 癒しの雨が降ってくる
頭の上から 温かい やさしい雨が降ってくる
雨粒は 鮮やかに躍動するピンク色や 穏やかで柔和な橙色に感じられる


それは緊張を解きほぐし 心も身体も魂も 全部緩めてくれる
不思議な秘薬の含まれた雨
身体に染み渡る
背骨の辺りに じわじわと 深く染み込んでいく
消毒薬のように 少し沁みるような感覚がする


体中の凝りがほぐれてきた
心が ふわふわのマシュマロのように 白く柔らかく 胸の辺りに広がっているのを感じる
気づけば 私のすべては、そのマシュマロのふわふわのなかに包まれてしまう
それは とてもとても気持がいい


マシュマロの上に オレンジとピンクの雨がやさしく降り注ぎ
だんだん マシュマロはやさしい色に染まっていく
同時に 私とマシュマロの間の境界が だんだん溶けて曖昧になっていく
どんどん柔らかくなって 心も身体も すべてがその温かさのなかに溶けていく


すべての細胞そしてDNAも マシュマロのなかで揺蕩い 手を取り合ってダンスをしているよう
オレンジとピンクの光が弾け合い どんどん輝きを増すのが感じられる
ずっと閉じ込められ 溜め込まれていた感情の名残を 光のぬくもりがそっと溶かしていく


広大な自由を感じ 心が爆発するほどの 強い悦びであふれる
すべての細胞が 本当に今 悦びに爆ぜるのを感じる
それは とても懐かしい感覚

 

動物を食すこと、植物を食すこと

世の中には、少数派というものが存在することだけで気分の悪くなる人達がいるらしい。ヴィーガンベジタリアンだったり、LGBTだったり、何でも構わない、ただ少数派である人々が自説を主張するだけで、どうしてそんなに叩こうとするのか私にはよくわからない。どんな心理でそういう行動をするのか、考えてみようとしても気分が悪くなるのでやめてしまう。


大手のニュースサイトで、ベジタリアンを擁護する内容のコメントが袋叩きにされているのを見たことがある。大体同じような詭弁が繰り返されていた。動物を殺すのは可哀想だと言うくせに、植物だって命があるのに平気で食べているじゃないか、というような。
動物のこどもを殺すなと言うくせに、植物の赤子である果物を平気でむしり取って齧り付いているじゃないか、という内容を目にしたときには、そこに込められた悪意に寒気を感じた。
植物が自らの種を絶えさせないよう、動物に果実を食べさせて種子を遠くに運んでもらうために、植物の方がそう進化したのだということを知らないわけではないだろうに。


植物も動物も、どちらにせよ命を頂いているのだから、感謝して食べればよいのだという一言で片付けようとするコメントも多かった。それにも強い違和感を抱かずにはいられなかった。
私も含め、どれだけの人が肉を食べる度毎に犠牲になった動物に感謝を捧げて食べているだろうか。その程度の軽い感謝で足りるものなのだろうか。
人間より進化した新たな生物が現れて、人間を飼育してまるまると太らせたあと屠殺して食べるようになったとしたら? 死んでくれてありがとう!美味しく頂くね!と言われながら殺されたなら、それに納得して喜んで死んでいくだろうか?
感謝という言葉が免罪符のように使われ、あまりにもぞんざいに扱われることに軽く吐き気を感じた。


植物を刈ることが、植物を殺していることだといえないこともない。けれど、動物を屠殺することとは全く別のものだということは、通常の神経で考えれば当然に思えるのだけれど、それは私の普通であって、他の人にとっては普通でないのかもしれない。
植物を刈り取ることと、動物を屠殺することは、どこがどう異なるのか。自分の中で明確にしたくなり、私なりに考えてみた。あくまで個人的な捉え方なので、正しいかどうかはわからないし、わからなくていいと思っている。


動物の目を見れば、一頭ずつに魂があることは感じ取れる。人間と同じ、一人に一つの魂。
それに比べて、植物というのは一株に一つの魂とは考えにくい気がする。一つの種に一つの魂があるか、もっと大きな視点で、それら全てを束ねる、植物界全体に一つの大きな魂があるのかもしれない、とも思う。
植物はみな大地に生えている。大地がなければ植物は育たない。大地というのは地球のことであり、植物は地球に根ざしている存在。その意味で、植物は地球と一体であり、地球そのものであると言えるかもしれない。
種を遠くに運んでもらうために、果実は動物に好まれるようなものに進化した。植物は果実を食べられることを望んでいる。食べられることで動物と共存することを望んでいる。


動物も種を守るために繁殖し、数を増やしていこうとする本能はあるけれど、一頭ずつにはじめと終わりの明確な命と、そこに宿る魂がある。地球上に生きていても、地球と一体ではない。
一頭の動物を殺すのは、もしかすると、地球という星一つを滅ぼすのと同じくらいのことなのかもしれない。


肉食動物は、他の生き物を食べて生きるように設計された生物で、それ以外に生きるすべがない。必ずしも肉を食べなくても生きられるのに、肉を食べることを選択し続けるのはまた別の次元の話。
人間は、他の動物を食べることを続ける以上は、半分獣、半分人間という状態のままではないかと思う。それを敢えて選択して生きている。人間同士でも、強いものが弱いものから奪い取り、虐げながら生きているのは、肉食獣である証明だ。
全体的に人間となるのには、まだまだ道半ばなのかもしれない。それでも、半分獣の状態を卒業する道の上にいて、そこへ進んでいると信じたい。


もし屠殺の現場をテレビなどで流したとしたら、どうなるだろう。そこでなされていることを、私を含め皆知らない。なんて残酷なシーンを流すんだとクレームの嵐だろうけど、クレームをつける人自身も、そうして殺された動物の肉を食べて生きていて、その殺戮に参加しているも同然と言えるのに。
人間は自分の残虐さを知らないし、知りたくない。それを直視することができない。穢れたものは埋め込んで、無かったことにしてきた。それでも、それは無くなったわけではなく、目に見えないところで腐敗が続き、その腐敗臭を隠すためにさらなる美談が必要になる。その連鎖を断つべき時が来ているのでは。


私自身、完全なベジタリアンなわけではないし、今でも肉も魚も食べている。一度動物性のものをほとんど摂らなくなった時期があるのだけれど、貧血がひどくなってしまったので、それからは緩くなり、全く排除しようとするのはやめた。時間をかけて、少しずつ身体を改造する必要があるのかも。
いつか完全な人間となって、獣である部分を終わらせることができるように、植物界のように全てとバランスを取り共存していこうという精神で生きられるように、私自身も進化していきたいと願う。

 

猫の恩返し

もう二十年以上前のこと、家の庭によく来てくれた猫がいた。どこのお宅の猫か分からなかったけれど、飼われていた猫だったと思う。黄土色っぽい縞のある毛色で、当時「焼津のマグロ」とかいう猫缶のCMに出ていた猫に似ていたので、うちではその子を「焼津」と呼んでいた。


焼津はとても人懐こい猫で、すっかり私に懐いてしまって、毎日のように家にやってきた。焼津と遊ぶのが、密かな私の楽しみとなった。
夕暮れに、後ろ髪を引かれながらも、今日はもう帰りな!と言ってガラス戸を閉めてしまうと、庭をいつまでも徘徊し、私を待っているのが見えた。ガラス越しに目が合うと、焼津はガラス戸に前足をついて伸び上がり、まん丸な目をさらに丸くして、ニャー!と大きな口を開けて訴えた。


時には、子分の黒猫を従えて来た。
黒猫の方が体は大きいのに、焼津の言いなりで、2匹におやつをひと口ずつあげると、焼津が威嚇して黒猫は逃げてしまい、悠々と2匹分を平らげるのだった。(今思うと外猫に勝手に食べ物をあげるのはよくないことだろうけれど、当時は私も意識が低かった)
逃げた黒猫は、焼津の目を盗んでまたそろりそろりと近づいてくる。だるまさんがころんだをしているみたいに、ふと見るたびに黒猫は少しずつ近づいている。焼津が振り返り、ギロッと睨みつけると黒猫はまた固まってしまう。甘えた声で鳴いているときとは別の猫のように勇ましい焼津は、またしゃーっと威嚇して、黒猫は一目散に逃げ出す。焼津は得意げな顔をして、尻尾で私の脚に触れながら歩き回った。


猫が可愛くて仕方なくなってしまって、絶対うちでも猫を飼いたい!と思い、それがきっかけで猫を飼い始めることとなった。シルくんと巡り会ったのも、それを思うと、焼津のおかげとも言える。
うちで猫を飼い始めると、焼津は遠慮したのか、次第に足が遠のいて、来ることはなくなっていった。


それから十年ほど経って記憶も薄れた頃、ある日突然、どこかで見たことのあるような猫が、家にやってきたのだ。
よぼよぼと、歩くのもやっとといった感じの老猫になっていたけれど、確かに焼津だとすぐに思った。もう歯もなくなっていて、身体もやせ細って、見るからにかなりの年齢のようだった。


十年も経っているのに私を覚えていてくれたらしく、私のそばにはためらいなく寄ってきた。
なんとなく懐かしいお客さんにお茶を出すような気分で、柄杓に水を汲んであげた。焼津は覚束ない足取りで近づき、一度は水を飲もうとしたように見えたがやめてしまい、ほとんど口をつけなかった。その様子から、もう水を飲む体力も残っていないかのように思われた。
しばらく一緒にいてやったあと、私が家に入ろうとすると、一緒に入りたがって仕方ない。うちには室内に猫も犬もいるから、残念ながら上げるわけにはいかないよ、と言って扉を閉ざした。焼津は悲しそうな顔をして、何かを諦めつつあるように、じっと私を見上げているような気がした。焼津がどう思ったのか実際のところはわからないが、私がそう感じたのは確かだった。
十年前、ガラス戸を締めてしまった後に見せた焼津の甘えた顔が、そこに重なって見えた。


二三日、焼津はうちの玄関のまわりをウロウロし続け、その後はぴたりと来なくなった。
それっきり、焼津を目にすることはなかった。


最後に、お別れを言いに来てくれたのだという気がして、思い出すと胸が熱くなる。
猫もちゃんと触れ合った人を憶えていて、注いだ以上の愛を返してくれるということを、焼津は教えてくれた。


確かなご縁を感じた、焼津。またいつか、どこかで会おうね。

 

ぺしゃんこになった顔の愛おしさ

『カステラ』 パク・ミンギュ著 読了した。
誰にも似ていない、唯一無二の個性的な文章だなと思った。とてもポップでシュールで、リズムのある文体。圧倒的と言えるほど独特の世界観が確立されているところは村上春樹っぽいかなとも思ったけど、またちょっと違うし。


常識の斜め上を行く、ユニークすぎる視点で編み上げられる物語の根底には、現代社会のひずみの中で、生きにくさを抱えざるをえない人々への温かい眼差しが貫かれているように思った。


韓国社会の生きにくさは、日本のそれよりももっと具体的でシビアなものに感じられる。日本は村社会のような、横に引っ張られる生きにくさがあるけれど、韓国のそれは、小説や映画やドラマの中から察するには、縦に押しつぶされるような生きにくさのように感じられる。
押しつぶされてぺしゃんこになった顔を鏡に写し、泣いたり笑ったりしている人々。それでも彼らは冷めきった心を懐きながらも、斜に構えたりふてくされたり、生を否定したりすることは決してない、愛らしい人物ばかり。


読後には、頑なな常識にとらわれていたことが馬鹿馬鹿しくなるような、真新しい角度の視点を植え付けられたような気分と、人間に対する温かい気持ちがどこかから呼び起こされてきて、おはようと言っているような、そんな気分が残った。