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無神経な人

精力のすべてを傾けて、普通の人の普通の言動を模倣することに努めていた子供時代。些細ないじめにあった体験があり、深刻なものではないけれど、周囲に無視されたり酷い言葉が書かれた紙が下駄箱に入っていたりした。何でも思ったことをズバズバ言っちゃうよね、無神経だよね、というようなことが書かれていて、うちのめされるような思いがした。

毎日疲れ果てるほど自分の言動に心を配り、無神経なことを言ってしまわないように神経を張り詰めて生活しているのに、それでも無神経と言われてしまうのか。もうこれ以上どうしろっていうんだ!と。
他人が何を気にして、何を言われるのを嫌だと思うのかが結局よくわからない。

こういうことを記憶の中から掘り起こして書くことに何の意味があるのか、過去にかかずらわっていないで今を生きろ、と自分に言い聞かせていたけど、それでもふと思い出されてしまう時、それを言葉にしてこんな風に吐き出すことで、その時の思いを弔うことができて、その後度々思い出されることがなくなっていく気がする。

中学生の時、割と仲良くできていた子の家に三人で集まることになった。一人の子が遅れてくることになり、私と友達は二人で先に家に上がって、お菓子を食べた。友達は、三人目の子が来たら先にお菓子を食べていたことは内緒にしようと言った。私は深く考えることもなく二つ返事で同意した。その後三人目がやってきた時、私はその約束をすっかり忘れていて、友達が改めてお菓子を出してきた時にうっかり「また食べるの?」と言ってしまった。あっしまった!と思ったけれど後の祭りで、冷たい目で睨まれた。

先にお菓子を食べて待っていることが内緒にするほど悪いことなのかがわからない。嘘をついて食べていなかったふりをするのが、三人目の子に対する思いやりなのだろうか。今考えてもそう思えない。親切な嘘なのだろうけど、そんな嘘をつく意義がわからない。
何でも同調しようとする癖から、何も考えず口裏を合わせることに同意してしまったけれど、その意味がよくわかっていないから、約束が意識に残らずどこかに流されて行ってしまった。
もし私が遅れて行ったとしても、先に二人がお菓子を食べたとして仮に私だけ食べられなかったとしても、それは私が遅れたせいなので、何も感じない。先に食べたなんてひどい!と怒る人がいるのかもしれない。そんなふうに怒られて嫌われないように、潤滑剤としての嘘を予め撒いておくのだろうということは理屈で考えてようやく分かることで、感覚的には今でも全く分からない。

その事で仲良くしていた友達との関係にヒビが入ったりはしなかった。その子が許容してくれたのは幸いだったけれど、こうやって地雷を踏んでしまうのはまだ自分を律しきれていないってことだ。もっと気をつけないといけないと戒めた。
大人になっていくほど気をつけなければいけないことは増えていくのが当然で、最後は処理しきれなくなってメルトダウンしたという感じ。持続可能じゃなかった。

持続可能にするには、あえて地雷を踏むくらいの気持ちで生きるしかなくなった。それでもまだ、昔のように疲弊するのが怖いし、人の間で揉まれるのが苦痛で仕方ない。かといって完全に孤独に生きていく覚悟もできない。理解してくれ完全に許容してくれる、心からの安らぎを感じられる相手がたった一人でもいてくれることが、私にとっての究極の幸福なのだと思う。それ以上でも以下でもなくて。