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Dépôt de Météorites

デコレーション弁当

可愛い動物やキャラクターを象ったお弁当。タコさんウィンナーくらいならいいけど、最近のは手が込み過ぎていて、妙にリアル。それを食べちゃうのって、残酷じゃないの?──そんな事を言ったら、空気読めよ?って睨まれるだけだろうか。

見た目が映えることばかり優先されて、形状だけを追求する。それは本当に美味しいのだろうか。母の愛を感じられるのだろうか。──あまり追及したら、鳩サブレも食べられなくなるけど。
安全な無農薬、有機栽培の米や野菜を使う。添加物の含まれる食材を避ける。栄養のバランスを整える。そういうことが最も大切なことのはず。有機の食材は高いから…と躊躇しても、その分手間ををかけて作ったキャラ弁だから愛も籠もったものになる、という理屈になるのか。確かに仕方ない面もある。でも本当にそれでいいの?

アンパンマンは自分の頭を取って食べろと言う。うさぎはお礼をするために自ら火の中に飛び込んだという。それとキャラ弁を並べてみると、どうにも切なくて仕方なくなる。もし自分に子供がいたとしても、キャラ弁は絶対に作りたくない。

豚肉の特売チラシに、可愛いブタさんのイラストを添える。それだけ見れば可愛いし、わかる。わかるけど、とても哀しくなる。おとぎ話や夢の世界を見つめることで、現実の醜さから目を逸らす人間の弱さ。それもよくわかる。どうやって豚肉が流通し、どうやってスーパーに並んでいるか、その過程は暗黙の了解でひた隠しにされ、その闇に可愛らしい絵が置き換えられる。そんな狡い人間が、自分が狡いことをしていると気づこうともせず、美しい言い訳に逃れていくのは、やはりとても哀しいことではないだろうか。

手作りのお弁当を作らないと子供に対する愛が証明できないというのも、全く理不尽なこと。手が込んでいればいるほど立派な母であるかのような幻想。母であることの形が社会に勝手に定義され、それに従わないと母親失格のように言われる。言われなくても暗黙の圧力で自分から悩みに頭を突っ込む。お弁当だけでなく、手作りの袋だとかも強要される所もあるとか。手芸が得意な人以外は重荷にしかならないはず。

公園デビューだとか、母親同士の人間関係にも過剰に気を遣うことを求められるし、社会は狂っているとしか思えない。どれだけ可愛いデコ弁を作ったかをアピールして、よく出来た母親であると自慢したい向きもある。デコ弁を否定する人は上手く作れないから僻んでいるだけでしょ?と、その人達の思考回路ではなるんだろう。母親の欲に子供を利用しているだけ。子供への愛に名を借りたマウンティングでしかない。

必要のないものを積み上げる競争に、ただただ疲弊して、生きることに疲れてゆく。そこから抜けるには、子供を持たない選択しかないんだろうか? どうでもいいことに身も心も捧げ、最も価値あるものを諦めてしまうという構図に見える。これらの暗黙の圧力を全く意に介さず、どこまでも無神経に面の皮厚く生きていけるなら、すごく格好良い。
いろいろな意味で、デコ弁キャラ弁は社会の病巣を顕している。