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与えてあげるという行為

熱心な宗教信者の従姉と揉め事があった件。従姉から謝罪の電話があり、なんとか円満に解決はした。 その際に話したことで、認識の相違というのはこんなに深く誤解を招くのかと思うことがあり、考えさせられた。

結局我が家の申し出の通りに、従姉の借金はなかったことになり、念書に捺印までしたのでそれで完結したという認識で従姉はいる。それでいながら、彼女は頻繁に差し入れを持ってくる。高級食パンであったり、ちょっと立派なフルーツであったり、様々なものを持ってくる代わりに宗教新聞も置いていくというスタイルだった。

私は従姉に送った長文の手紙の中で、生活に困窮しきった状態であるのを見かねて、今後借金を返せないとしてもそれでかまわないという提案をしたのだから、そのようなちょっとした品を差し入れる余裕があるのならば、千円でも二千円でもいいから少しずつでも、たとえ全額返済が不可能であっても、できる限りの返済をする姿を見せるのが誠意というものではないのか?というような問いかけを遠回しにした。

従姉が言うには、自分は安いフルーツで我慢しても、おばちゃんの家にはいいものを持って行っていたんだ、それを「余裕がある」と言われるのは心外だという反応が返ってきた。しかもワンワンと泣きながら。
念書に捺印まで求めたのは、親しき仲にも礼儀ありという気持ちからであったし、おばちゃんがボケてしまって今までに返した分のお金も受け取っていないと言い出したら困るから、と言っていた。その言葉は、それはそれで母のプライドを傷つけた。ボケること前提で話をされるのは悔しいことだろうと思う。

たとえこちらが返済はしなくても良いという意思を示したとしても(鬱で気持ちが弱ったときにそんな判断をするべきではなかったと今は反省している)、その好意に乗っかってすべてチャラにしようとするのはちょっとばかり図々しくない?という私自身の本心もあったし、何かを差し入れることによって、従姉自身が感じている負い目を軽くしようとしているのだという心理が見えてしまうということからも、ちょっと狡いなと感じてしまう。

そもそも借金をした時点で、向こうは債務者で、こちらは債権者だ。借金を返済する義務はないということになったとしても、むしろそのまま返済をしないとしてしまったことで、従姉は一生債務者のままでいる選択をしたことになる。返済し終わったときに初めて対等な関係になるはずなのに、借りのある方が貸している側に対して「物品を施してあげる」という態度に出ることが、ちょっと屈辱的なことに感じられる。物を持ってくるならその分のお金を返してよ!と思う。

しかも、食べ物でも何でも人には好みというものがあるし、従姉が美味しいと思ったものをこちらも同じように感じるわけじゃない。私にはマーガリンたっぷりのふわふわ食パンは正直貰って嬉しいものではないのだけれど、従姉はずいぶんと気に入っているらしく、度々そのパンを差し入れてきた。そのような好みの相違で困ることは誰の日常にもよくあることかもしれない。

けれど彼女は、自分の好みを良かれと思って押しつけて、自分の負い目も解消して、叔母と従妹は喜んでいるはずという気分に浸り、しかももう借金は消えてなくなって全く対等の関係となったつもりでいて、彼女にとっては良いことだらけ——だとしたら、やはりどうしても屈辱的な思いを感じてしまう。これは自分の心の歪みの所為なのか、よくわからない。心の美しい人ならば、これらをすべてさらりと受け流せるものなのかな。

従姉は、少しでも感謝の気持ちを表現するつもりで差し入れをしていたのだという。その気持ちは理解できなくはない。けどそれなら、その分借りたお金を僅かながらでも返すのが筋なんじゃないかと思う。人に何かを「与えてあげる」という行為が気持ちが良いからやめられないんだということも、そのときの彼女の表情から見え隠れしているように思える。その気持ちよさを味わうために、論理をすり替えられている気がして、どうしても釈然としない気分が残る。

母は捌けたもので、お金を貸すときはもう返ってこないものと思って貸すという。だから貸す決断をした時点で覚悟が決まっていて、今回もそんなものだと割り切っている。我が母ながら男前で格好いい。
悶々としているのは私だけで、未熟ゆえのこと。金品の貸し借りというものの難しさを思い知った。それは双方の醜さを浮き彫りにする。

ものをあげる行為というのも、純粋に相手のために行われることもあるけれどそれはむしろ少数派で、便宜を図ってほしいとか、人脈作りとか、何かあった際にはお願いしますよ、といったような贈る側の打算的な意図があって行われる場合の方が多いように思えて、習慣化した贈答の習慣などは大嫌い。

人に何かをあげることが気持ちが良いのは、自分の欲を満たすという行為だから。与えてあげることで相手より上に立ったような気分になりたいのも、感謝されて良い気分になりたいのも、人とそれなりの繋がりを保ちたいという欲求も、自分の欠落を満たしたいという行為。
純粋に相手のためにあげるのだとしても、それを相手が望むかどうかはわからないし、困惑させてしまうこともある。相手の喜ぶ顔が見たいというのも、自分が親切ないい人であると思いたいのも、それもあくまで自分自身の欲だから。