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愛の幻を描いたデッサン

韓国ドラマ『あなたに似た人』 Netflixにて視聴。

愛の奈落に落ちていく人々を、美化することなく残酷なまでに正確にデッサンしたような作品。とてもグロテスクに仕上がっているけれど、直視してしまう、するしかない、逃げ道のない絵画。
赤と緑という補色が際立つオープニング映像の芸術性。二人の女性がそれぞれ纏う赤と緑の衣服が残像に残り、それ以外の色はモノクロームであったかのような印象が残る。音楽や色彩も相まって、どことなく昔観た東欧の映画を彷彿とさせるような香りがある。

十何話目かに「誰も愛していなかった」という回があったけれど、本当に、情が絡み合い軋み合う中で、気付けばそこに「愛」は全く存在しなかったという現実に帰結して、どうにもならない虚しさに襲われる。
愛という仮面をかぶった執着。豊かな生活を手に入れるための鍵。理想を演出するための嘘。現実逃避の道具。乾きを癒すために飲む酒。高揚を感じるための麻薬。それら幻影を幻影と感じないための言い訳。それが全て愛という便利な言葉で表現されるものの本質だということを、この物語は詳かにしてしまう。

物語の中で『嵐が丘』が引き合いに出されていたけれど、『嵐が丘』ではむごい復讐劇であってもどこか美しく、崇高ささえ感じられる気がする。それは多分、主人公二人の愛が初めから完成されたものだから。人生の中で分かち合うことができなかったけれど、通奏低音みたいに徹頭徹尾、彼らの間に流れる愛が奏でられ続けているからじゃないかな。
一方、このストーリーではその低音の響きは見つからない。見事に人間の狡さやエゴイズムが増殖してきて、どんどん醜いものに変貌していく。

復讐ということもテーマ。憎しみや怒りがやり場なく積り続けるために、復讐そのものが生きる意味と成り果ててしまった人には、謝罪が通用しない。謝罪を受け取ってしまったら、生きる目的を失ってしまうから、絶対に受け取ることはできないんだ。確かにそうだと思った。
謝罪して楽になることができないのなら、逃げようとせず、自らその苦しみのはけ口となって、相手以上に苦しんで生きる覚悟がいる。その覚悟ができるかできないか。

アイルランドの、見渡す限りヒースの咲き誇る草原、二人の愛の巣へと続く白い階段の景色がとても印象深くて、この風景を見つけたときにこの物語が生まれたのでは?と妄想してしまう。どこか物悲しい荒野の風景が心象に重なる。

ラストシーンは、世界の最も深い底に存在するかのような暗く沈んだ湖に、鐘の音が響く幻聴。アイルランドで、水に沈んだ鐘の話を彼がしていたっけ。彼女の人生のどん詰まりに、聞こえたものはそれだったんだ。幻影であっても愛はどうしようもなく美しいもので、それが生の源泉だということなのか。

赤と緑、二人の女優さんが素敵だった。
緑のコートのへウォン。復讐し相手を傷つけ、苦しめることが生きる目的となり、暴走を抑えることはもはや不可能。相手が追い詰められるほどに自分自身も傷ついていき、さらに壊れていく。そして、誰より一番に自分を罰しているということを、自分自身で気づいている——。その様を体現する、極めて繊細な演技。

赤のヒジュ。子供の母としての顔、姑に傅く嫁としての顔、気のおけない友人の前でのざっくばらんな顔、夫に見せる良き妻としての顔、そして一人の女としての顔。成功した画家として社会に見せる顔、人も羨む優雅な生活の中でも満たされない心。全て同じ人物ながら明らかに違う仮面であり、眼差しから声色から、あらゆる部分で確実に相違がある。それでいて全部がどこかで紐付き、連鎖して、強いテンションで引っ張り合っている。そんな様をつぶさに表現していて、凄みすら感じさせる。そう、コ・ヒョンジョンの演技はいつも「凄み」があるな。

互いの欠落したものを補い合えれば、いっときは幸せに感じるだろう。それがずれ始めたら、欠落はより深く濃い影を落とす。人間の中にある闇を浮かび上がらせるのに、恋愛に勝るものはない。それを相手に埋めてもらおうとする以上、必ず破局が訪れる。

闇の在り処に降りていくために、人には愛の幻影が必要なのかもしれない。欠落を癒し、満たしてあげるのは、自分自身にしかできないこと。外に癒しを求めるのではなく、内側で輪を結ぶこと。
満ちたりて、自分自身に恋をすることができたときに、本当に誰かを愛することができるようになるのだろうか。その領域に達したいと願う。