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天国を生きる

韓国ドラマ『天国の階段』再見。これが初めて観た韓国のドラマで、その後の沼のきっかけとなった。

交通事故に記憶喪失に不治の病のクサいストーリーだと言ってバカにする人たちとはお友達になりたくない。そういう舞台装置はジェットコースターに必要な落差や弯曲と同じで、いちばん感情の起伏や盛り上がりを作るのに適しているから繰り返されているというのがよく分かるから、全く気にならないし、むしろ安心感がある。

千年前に生まれた人も、一万年後に生きる人も、このストーリーに心動かされるはず。それだけの普遍性。相手が欲しいという強い思いに突き動かされる恋が、どこまでも相手に捧げるという愛に美しく変容していく。

若くして死にゆく運命を受け容れた彼女が、私ほど幸せな人がいるかしら?と呟く。愛されるというのはそういうことだ。

こんなお伽噺チックな愛は現実には存在しないフィクションだと一定の人が思うのかもしれないけれど、私はそんなふうに現実を諦めて生きられるほど器用な大人じゃなくて、打算や駆け引きもまるで理解できずに子供よりひどい有様で、でもそんな自分で良かったと思っている。

現実に接する人々より、ドラマの中の人物のほうが圧倒的に共感を感じられる。人生を圧縮して単純化しているせいもあるし、感情の動きが見えるように作ってあるからだろうけど、実際に接する人々の心の内があまりにも読めなさ過ぎて恐ろしいということの反動もあるのかもしれない。

自分のことで精一杯になってしまい、立ち位置の違う人の心を思いやることがどうしても苦手で、悪気はなくても配慮のない言動を取ってしまいやすいのをよく自覚している。ドラマ内の人物には、自分の目線を重ねて見るから理解できる。けれど、相対する相手として見るとその心が見えなくなりがち。共感力の不足体験を補うように、ドラマや映画などで深く共感する体験を手当たり次第に貪っている。それでやっと心が息をつけるという感じがある。
現実の世の中は退屈で、近視眼的で、色彩がなく、渇いている。そこから羽ばたきたくなる。

永遠の愛を誓いますか?と結婚式でやるけれど、それは誓っちゃだめなのでは。契約という意味に履き違えてしまうから。永遠の約束を守れるかどうか分からなくても、それなしには今を生きられない、その人を想っていなければ自分が自分でなくなってしまう……と感じ続けるのが本物の永遠なんだろうと思う。そこにしか天国はない。
いつかどこかじゃなく、今この瞬間に天国を生きるということを、諦めたくない。