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自動的な擬態

ASDの男性対女性比率は4対1だというデータがなんとなく独り歩きしているようだけれど、女性特有の特徴は男性のものとは少し異なっているということが、医療従事者にすらよく知られていないというだけなんじゃないかな?と感じる。

女性は、擬態が得意で見えづらいだけだ。擬態していることが当たり前過ぎて、擬態していることイコール社会適応であり正しいあり方と思い込まされてきた。

それによって本質的な自分は内側で殺されていく。引き裂かれていき、結局双方を見失う。

世の中に適応しようとすれば、むき出しの自分のままではいられない。どう適応すればいいのかも皆目わからないから、周りを観察してデータを収集し、どのような場合にどう受け答えしているか、どんなふうに振る舞うかをインプットし、それを脳内ファイルに整理して必要な場面で必要な情報を取り出せるようにする。いざというときはそこから抽出したデータをもとにそれを演じる。それを毎日繰り返す。なんだか、AIが自身で学習するみたいだ。
そこに「私自身」は、いない。

その場で求められる正解を演じているだけで、私は何も感じていないし、何も考えてもいないし、自動運転ですでに癖になってしまった「擬態」を繰り返しているだけ。
それをやめたいと思ったときに、もう自動化してしまっているがゆえにやめられない。人と接する場面で、もう自動的に演技に入ってしまい、それをやめる方法が分からない。

すべての場面でなくとも、少しずつ自動運転をやめていくこと、それが私が生きていくということの目標になりつつある。
過剰適応することで本当の自分が存在しなくなると、いつしか逆襲が始まった。自分の世界はそれが息絶える前に存在を猛アピールしてきた。世の中の価値とはまるっきり違う位相にある私自身。黙って殺されはしない。

上手く擬態して世の中に適応できていると勘違いした私は、到底無理な在り方を自分に期待するようになって、自ら空中分解するみたいに崩れていった。内側が空白なので、脆い骨みたいに耐性がなくなっている。

子供の頃に擬態が上手く行かず、世の中からはじき出されて苦労する人もいるし、私のように意外なほど上手く行ったために後でつけが回ってくる場合もあるし、それぞれなんだと思う。
ただ言えるのは、擬態の状態でいては、心の安定も幸せも未来永劫やってこないということだ。

世の中の価値観に自分から突っ込んでいって、心のなかにぶっとい針を突き刺して注入する、そういう自罰的な態勢に気づいたらその度改めないといけない。自分のものじゃないものは中に入れてはいけない。自閉なのに他者を取り入れすぎているというのは矛盾しているようだけど、だからこそ排除しないといけない。

イメージとして、世界に首を突っ込んでいくのじゃなく、自分はどっしりとここにいて、世界のほうが私を包んでくる感じ。

私の本質は変わらないままで、世の中と反発し合うのではなく、かつ混じり合わないままで、世の中が私を守っているような状態をイメージングする。擬態をやめていくために。
社会人としてまともとは言えない、ちょっと不思議な言動を取ってしまったとしても、それが私なので構わない。気に病まない。むしろ積極的に変な自分でいようと思う。