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友達の真似

幼い頃、学校に上がって大勢の同年代の子供たちの中に放り込まれて、どう接していったらいいか全く解らなかった私は、とにかく人のやっていることを観察し、分析して、このような場面ではこういう言動を取るものだということを一から学んでいった。多数の平均を取り、まず間違いがないような言葉を吐き、行動した。それは人真似以外の何物でもなかった。人の真似をすることでなんとかサバイバルし、集団に溶け込もうと必死だった。いつの間にか、人の真似をすることは正しいことで、最高の処世術だと無意識に感じるようになっていた。

ある時、友達の持っている文房具が可愛くて、私も欲しいと思った。たまたま同じものが売っていたので買った。翌日学校に持っていったら、その友達はあからさまに嫌な顔をした。私はその文房具シリーズの柄がとても気に入ったから買ったのであって、別にその子のことを意識した訳でもなんでもなく、その子に不快な思いをさせるなんて露ほども考えていなかった。その子が裏で、鈴鹿ちゃんが真似をした!と他の子に悪口を言いふらしていたのを知り、更に驚いた。真似をすることでなんとか集団の中で生きることが出来ていた私は、真似をされると拒まれるということを知り、激しく混乱した。

思春期以降になると、他人と着る服がかぶったりすることを異常に嫌がる人が多いと気づいた。同じ服を着ていたって、中身は別なのだから別にいいじゃない?と私は思うのだけど、何故そこまで嫌がるんだろう。
流行っている同じようなマフラーをしたり、同じような靴下を履いたり、そういうことは大丈夫なのに、文房具や服がかぶるのは許せないという感覚が、未だに解せない。流行りのソックスなんてかぶりまくりなのに、一時期みんな同じようなのを履いていたじゃない。

大きな流れでは、流行りに乗り遅れていないカッコいい私でいたい。でももっと細部では、人と差別化を図り、自分らしさをアピールしたい。それを邪魔してくるやつは許せない、という感覚なのかな。勝手な話だなと思う。身勝手に感じられる暗黙ルールが多くてついていけないと思った。私にどうしろと言うんだ!と腹も立った。
そんなふうに揉まれているうち、皆が良しとするものにはまず疑問を抱き、流行っているものは否定してかかる癖がついてしまった。今度は真似をすることの反対。それも真似をしているようなものか? 反対方向を向いているだけで基準点が一緒なら。

人の在り方と照らし合わせなければ、自分がどういうものかわからないと言うけれど、そうやって他者との距離を測り、比較によって自分の形を知ることが、そんなに大切なんだろうか。自分のことを理解して分析するなんてする必要あるのかな。人と違う部分がどこで、人と同じ部分がどこだと、知ったところでなにか変わる? 結局他人基準でしか物事を見られてないのに。

自分の形を頭で認識しても、また自分の形というものは揺らいでいき、姿を変えていく。その度認識が追いかけていっても、取り残しや間違いが生じると思う。逆に、認識のほうが自分を縛りだす。私はこういう人間のはずと。
なにかの映画で、記憶を失った人物が、自分の好きだった色も思い出せないの!と嘆いている場面があった。その時感じた違和感。記憶がなくても、今この瞬間に好きだと感じる色が、あなたの好きな色なのではないですか?