SITE MÉTÉORIQUE

Dépôt de Météorites

トマトに砂糖をかける

我が家では、トマトに砂糖をかけて食べるのが定番だった。
父と祖母が極端な甘党で、何にでも砂糖をかける傾向があった。いちごに砂糖と練乳はよくあることかもしれないけれど、グレープフルーツにもこんもりと砂糖を山のように乗せていたものだった。

そんな流れでトマトにも砂糖を振りかけるのが普通のことだと思っていた私は、学校で何気なくその事を話した。その後の反応は、全員一致での見事な全否定。異常だ、まともじゃない、味覚が狂ってる、等々の言葉でいっとき盛り上がり、大勢にもの凄いテンションで否定された。圧倒的多数に袋叩きにされたような感覚を確かに抱いた。
……という記憶があるけれど、その記憶がどこまで真実かは自信がない。自分の中で反芻するうちに誇張され、実質よりも大袈裟になっているかもしれない。

過敏だった私は、その全否定に過剰に反応し、勝手に心に傷を負った。それ以来、二度とトマトに砂糖をかけることはしなかった。家族がそうしていると、自分がそうされたように大袈裟に否定してみせた。私が頑強なので、だんだん家族の方が折れていき、次第に食卓でトマトに砂糖をかけることはなくなっていった。

そんなふうに否定される体験や心の傷を通して、子供は心を成長させていき、年を経るにつれ強い皮膚を持つようになり、剥き出しの心を守れるようになるものなのだと人は言うけれど、私は成長するうちにどんどん逆行して、より傷を負いやすく、脆く壊れやすくなってしまった気がする。幼い頃が一番耐性があり、柔軟性があり、適応力があったみたいに思える。経験のたびに、それを一つ一つ見失ってきたみたいだ。

大人になって随分経った頃、何気なく見ていたテレビの中で、若い女性タレントさんが「うちではお赤飯に砂糖をかけて食べていた。それがずっと普通だと思っていた」と話しているのを耳にした。それを聞いた周囲の反応は、私がかつて経験していたものにとても良く似ていた。ありえない、なんで赤飯に砂糖? 味が想像できない! 気持ち悪い! 誰一人共感しないのに、彼女は負けていない。おはぎとかだって小豆とご飯が甘くなってるじゃないですか!それと同じじゃないですか! 

当然、客観的に見ればわかる。否定されて炎上するのはテレビの中では正義であり、枠から外れた変わったことを言うのはむしろ強みであり武器だ。否定する側も大声で騒いでいるけれど、予定調和の内側でだけであり、誰も彼女を攻撃しているわけではなく、一緒になって面白がっているだけ。

私の体験したことも、これと同じ単なるイジリだったのかもしれない。誰も私を攻撃したわけじゃなく、面白がっただけなのかもしれない。袋叩きにされたのじゃなく、軽くからかわれただけだったのかもしれない。なのに私はどうしてあんなに傷ついて、二度と同じことを繰り返したくなくて、何事も人と同じように、人が同意してくれるように振る舞わなければいけないと思い込んでしまったんだろう。
口先だけ人に合わせて、トマトに砂糖なんて気持ち悪いよね!とか言いつつ、家に帰ったらいつもしているように砂糖をかける、という裏表を使い分ける方法だってあったはず。でもそんな器用な生き方もできなかった。人と違えば自分の方を改善して人と同じにしなければいけないなんて、誰も私に強要したわけでもなく、自分が勝手にそうだと思い込み、自分で自分に強要しただけだった。

人と人の間で生きるということは、その摩擦によって始終細かな傷を負うことで、そのぬくもりで癒やされるということよりも、連続して終わりの見えない細かな傷たちの痛みのほうが遥かに強く、まったく比較にならなかった。痛みを癒すために孤独になって心のなかに立てこもり、怪我を負った動物のように暗闇で丸くなって過ごさなければならなかった。
傷つきやすかったのか、自然治癒能力が劣っていたのか、何なのかわからない。単にそういう性質を持っていたというだけで、ただの個性でしかない。

その個性をさらに「弱いこと」と解釈して、「弱いことは悪いこと」とジャッジした。そうやって二重三重に自己否定することで、身動きが取れなくなっていく。一重の否定であれば、気づきを得て、目から鱗が落ちるような内的な体験があれば、そこから動き出せる。でも更に絡まり合っている場合は、ひとつふたつの気づきでは到底振りほどけない。自己改革を推し進められないことを責め、歩き出せた人たちと自分を比較し、自分はなぜできないんだろうと否定の要因が増し、更にひどく絡み合っていく。

すごく単純に言って、それが私の半生の全てだった。
自分が弱かったとしても、強くなろうとしないこと。何が良いか悪いかを一義的に決めつけて自分を裁かないこと。たったそれだけを求めて彷徨ってきた。

皮膚を強く育てることができずに、免疫をつけることもできずに、内蔵を剥き出しのままで存在するしかなかった。ならばそれを受け容れて肯定するだけ。皮膚を持たない珍しい個体だから、それ相応の生き方をする。それに適応して生きる。多くの人と同じことを自分に求めない。
それは甘えではなく、逃げでもないと忍耐強く何度でも言い聞かせ、脳内の野党から自分を守ってやる。そして、それは自己弁護ではない!と何重にも言い聞かせてやる。今まで何重にも自分を咎めて来たのなら、全く逆方向に何度でも導いてやるしかない。それで絡まり続けた糸がほどけるかどうか分からなくても、それしか方法がない。

そういう食べ方もあるよね、変わっていて面白いね、などと言われたら傷つかずに済んだのに……と、外側を非難して変えようとしたって変えられることではない。多数派の暴力をなくそうとしたって無理なんだ。多数派には自覚がないから。
イジリと心の暴力の境界は曖昧で、悪意があったかどうかは検証できない。だったら、悪意があったものではなく、愛すべきイジられキャラとして扱われたと捉えて、事実がどうだろうとそう思い込んで、なんなら記憶まで書き換えて、自分で自分を癒やすしかない。過去の記憶なんて所詮、歪められていて当然なものだ。

最近になって、トマトに砂糖をかけて食べてみた。何十年振りだろう。こんな味だったっけ。トマトとは全く別物の、ちょっとしたフルーツみたいな感じになり、悪くなかった。