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日常の魔法

『八月のクリスマス』 1998年の韓国映画を観た。ハン・ソッキュ、シム・ウナ主演。

盛り場のトイレの鏡の前で、突然姿を消した彼を想い、涙を流し、鼻をかむシーンが印象的。日常のなんでもないようなシーンが降り積もり、それが次第に輝く宝石となっていく魔法を、丁寧に編み込むように描き出している。それは誰もの人生にある、身近な魔法でありながら、すり抜けてしまい手が届かないもの。

遊園地で手渡した缶飲料の飲み口を、そっと拭いてやる彼女の横顔や、彼の昔話の中に登場するおならをする幽霊の話や、本当に些細な出来事の一つ一つが次第に重みを増し、煌めいていく。
万年筆を丁寧に洗い、新しいインクに思いを込めてしたためた手紙は、投函されることなく箱にしまわれた。きっと私でも、あの手紙は投函できないだろうと思った。

八月のクリスマスというタイトルが素敵。期間限定のときめき感、仄かな期待と高揚感、本当にはサンタさんはいないかもしれない、一抹の淋しさと幻滅への恐れ……それとも、ラストシーンの雪の日に彼女が見つける、写真店に飾られた自分の写真が、まさにクリスマスのプレゼントとなったから?

独特の「間」があり、それによって坦々とした緩やかなテンポに微妙な抑揚がつく。詩情溢れていながら、それに酔わない、冷静で綿密な細部の作り込みを感じた。これが初監督作なんだって。凄いな。

自分に残された時があと僅かだと知ったら、いざその時になったら、どう思うのだろうと考えさせられた。
この世界に、自分のエネルギーが写されたものが残るのが、とても心配になる。大事にしていたぬいぐるみとか、このブログとかサイトとか。本人が消えたあとにその人のエネルギーだけが残されても、そのエネルギーは困るだろうなって。

何も残さず跡形もなく消えたいけれど、この世界に私を知る人も誰もいなくなり、誰も私を覚えていないとなったら、やはり寂しい気もする。
でも、私が消えたら私の世界も消え、どこかに私の魂が移動するなら、私の世界もまるごと移動するはず。そうしたら、過去の世界などどこにも存在しないということなのかな。

ウズモレル

情報に埋もれると窒息する
何もない場所に埋もれていたい
柔らかい眠りに揺られていたい
無数の塵が沈殿するのを見つめていたい

光が瞼を透かして囁いてくるのを感じたい
風が肌の上で遊ぶのを感じたい
時がまろやかに軋む音に耳を澄ませていたい
鼓動のなかにある宇宙を感じたい
銀河を逆に廻すんだ

スパイ養成所

青春グラフィティ的な群像劇。主人公の二人の男子は、何らかの養成所に入所する。そこは表向きは何の変哲もない、どこにでもある専門学校のようだったけれど、内実は、諜報機関の要員を育成するという裏の顔がある。敵地に潜入捜査員として紛れ込むために、彼らはあらゆる技術を習得し、マルチプレーヤーとなる必要があった。

その日の実習は、なぜか、電車の塗装をすることだった。古くなった車両をペイントし直し、生まれ変わらせる。
主人公の二人は、同級生たちに妬まれ、陥れられる。故意に誤った情報が伝えられ、赤く塗るはずの車両を青く、青く塗るはずの車両を赤く、ペイントした。透き通った青空は、宇宙の果てまで続くかに思われる。二人の男子は汗の雫を宝石のように纏う。焼けた肌、口元には輝く微笑み。真っ白な歯が際立っていた。

指導員が様子を見に来て初めて、彼らの失態が公となる。高校球児のような二人の清廉さは、何事にもたじろぐことがない。遠慮会釈もない、真夏の太陽のような眼差し。裏もなければ表もない。単純なだけに恐ろしい、愚直な圧が伸し掛かってくる。心に後ろ暗いものを持つ身では、彼らの眼差しは、まさに殺人ビームのように感じられるだろう。サングラスをかけなければ、凝視することさえ出来ない。

その光の前で、同級生たちは地団駄を踏み、指導者たちはグダグダになって権威を失墜させた。結果、反対の色に塗られた二つの車両は、番号を入れ替えてしまえば問題ないということになり、二人はそのまま作業を続けた。顔も白いシャツも塗料で汚れた彼らは、導火線に火のついた赤と青のダイナマイトのように見えた。

 

秘薬

あなたを見つめていられれば幸せだった
あなたを欲しいと願ったから
あなたを見つめることは苦しみに変わった

痛みのため
あなたを見つめることができなくなった
わたしはあなたを失って
わたし自身を失った

もう一度あなたを見つめたい
ただそれだけが私の願いとなった
それだけが私の恐れともなった

わたしを醒まさないで

血を吸い上げた紅い薔薇
昨日までは純黒だった紅い薔薇

秘薬だと確信できないその液体を
無心に吸い上げ
熱に浮かされる
あなたの血でわたしを染めてほしい
紅いままで朽ちていくことを
どうか赦してほしい

鎮痛剤はもう要らない
ふたつに割れた黒曜石の片方
天穹の半分 
つまりわたしの半身が
尖った刃となりこの心臓をを切り刻んでも

寸分狂わぬ合致など在り得ない
そうだとしても
幻視に耽り
醜態を晒す
それがわたしにとって
生きることの総て
いのちの輝きの総てなのです

お大事に

アトピー性皮膚炎が再発してしまった知人に会った時のことを、ふと思い出した。
普段はほとんど完治してきれいな肌を取り戻していたけれど、最近過労が祟ったらしいと話していた。いつもばっちりとメイクしていたのにその日はノーメイクで、腕も露出できないらしく、オーガニックコットンのアームカバーをつけていた。そのせいか、生き生きとした印象がすっかり影を潜め、遠い靄の向こうにいるかのように見えた。

私は幸いなことにそのような皮膚トラブルとは無縁で生きてきて、彼女がどれだけ大変でどれだけ辛いのか、分かったつもりになっても本当には分かるはずがなかった。大変なんだなぁ、くらいの印象しか持てなかった。

当たり障りのない会話をして、私の方からはその問題に触れないようにした。別れ際、全く何も触れないのも失礼かという気持ちが過り、一言だけ「お大事にね」と言った。なるべくライトに、深刻にならないトーンで言ったほうが良いだろうか。瞬時にあれこれと計算を巡らし、おっかなびっくり発した一言だった。彼女は笑顔だったけれど、何か曇った感情が棚引いていたのを感じた。

病院や薬局で、機械的に投げかけられる「お大事にどうぞ」という言葉と同じような、心の籠もらない社交辞令のように聞こえたのだろうか。実際、私の発した一言は、心の籠もらない社交辞令そのものだったのではないか。嵐のような内省が始まった。

私の方も心の問題を抱えていて、外出するだけで苦しく、ひどく辛いという状態で、自分を守ろうとすることで精一杯だった。些細な刺激で大きく揺れ動く「面倒くさい」心を、なんとか刺激しないように、バリアを張ることに必死で、相手を思いやる余裕を持てなかったことに自責の念を抱いた。

軽々しくではなく、もっと心を込めて「お大事に」と伝えるほうが良かったのか。そう言ったらなら、彼女の苦労をよく理解できてもいないのに、いい人振るようで、どこか狡い気もする。
最後まで、敢えて何も言わなかったほうが良かったのか。それも腫れ物に触るのを避けて逃げているようで、狡い気がする。

どう反応しても結局、狡いんだ。自分がどう思われるか、どう対応するのが正しいのかということを気にしている以上。その作為的な心のはたらきが、美しくない。
他人の心の中はわからないのに、相手がそう思ったに違いないと勝手に決めつけてしまうのは、なんて傲慢で愚かなこと。

何も考えず、感じたままを口にすれば、必ず他人の気に障る失言をしてしまうと、いつの間にか思い込んでいた。慎重に言葉を選び、配慮に配慮を重ねて言葉を発しなければいけない。そう思えば思うほど自分を追い詰め、人と会話すること自体が苦痛でしかなくなる。

私の発言で誰かが気を悪くするなら、それはその人の抱えている心の問題に触れてしまったから。その人がその問題を抱えているのは、私には関わりのないことだし、私に責任があるわけではない。そう言うと冷たいようだけれど、個人の抱えたものはその人自身が処理し、解決するしかない、その人だけの「宝」なんだろう。

その関係の中で、どんな私でいれば心地よいのか。それだけを考えて、それだけに責任を持てばいい。