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こころとからだへの信頼

体の声を聞きなさい ってよく言うけれど

体がうまく働いているときは多少は聞いていたかもしれない
うまく働いているときだけは優しくしていた

うまく行かないときは鞭を打つ
なぜちゃんと働かないんだろうと不安になって
なんとかして働くように仕向けようと躍起になる
それは信頼の欠如

心を整えようとすることも
必死になってあれこれ手法を試みて
努力やあがきになってしまう
結局疲れるだけで効果は望めない
効果を期待していること自体まず間違っている

心を整えたいときは 体に聞き体をいたわる
体を整えたいときは 心に聞き心をいたわる
対象にこだわり過ぎず距離を保つのにもそれがいい

ここ数ヶ月の体調不良で
必死になって良かれと思うことを手当り次第
はまり込むほど症状はこじれていった気がする
私の体を信頼していません と
宇宙に宣言していたようなもの

ドリアンのような臭気

『毒戦 BELIEVER』 2018年の韓国映画を観た。

パク・チャヌク映画の脚本家だって。たしかに、華美で過剰でグロテスクで、どこかキュビズムの絵画を思わせるようなテイストが共通している。ドライでザラリとした質感のノワールじゃなく、ジトッとした情のからむような湿度がある。その湿度が、ドリアンみたいな強烈な臭気をより凝縮し、際立たせている感じ。

グロテスクなシーンは目を覆った。でもなぜか不思議と、嘔吐したくなるような嫌悪感が残らない。なぜなんだろう。主演のチョ・ジヌンの清廉で実直な存在感が、それ以外の全てと対立して、相手を一手に引き受けて均衡を保っている、というような。この俳優さんは、はじめの印象より、物語が進むにつれ、魅力が百倍増しになって、ラストシーンでは超イケメンに見えてくる。ドラマ『シグナル』でもそうだった。

細かい所の作り込みは流石に素晴らしくて、潜入捜査のシーンなどは息を呑んで、完全に時を忘れた。密売人キム・ジェヒョクの狂気が凄まじく、背後から首筋を冷たいナイフで撫でられているような戰慄を、観ている側にも十分に味わわせてくれる。表面的な、奇をてらったキワモノ的な演技では決してなく、本物の内臓が詰まった人間に創り上げているのがすごいなと思った。

こういうジャンルは苦手意識があったけど、アクションやドンパチを敬遠する向きにも、強く訴えかけるもの有り。
韓国の映像作品が好きなのは、共通して、「事件」よりもそこに生きる人間の「生」を描くことに主眼が置かれ、ブレることがないからだと思う。黒幕は誰なのかという謎解きでストーリーを牽引しながら、最終的に着地するのは、社会の不条理に飲み込まれて傷つき壊れた、弱き者たちの無言の叫びであり、その歪みがひき起こす巨大な地震と、後の廃墟の静けさ。

香港の『ドラッグ・ウォー 毒戦』のリメイク。オリジナルの方も観てみたけれど、ドキュメンタリーのようなタッチで淡々と展開し、派手なドンパチですべて決着がつく。後になんにも残らない。(それが作品として劣っているということではないにしても)
私は、芸術性においても、含みある締めくくり方においても、二重三重に編み上げることに成功している韓国版の方が、断然好み。

嫌なことはしない

嫌なことはしない 
気の向かないときはしない
何の我慢もせず 浅はかな配慮もしない

何かをしたいような気がしても いざ取り掛かるには抵抗が強すぎる
だとしたら無理に足掻かずに手放してしまう

「やらずに後悔するよりやって後悔したほうがいい」
手垢のついたそんな警句に 胸がチクリと痛む
それも程度によりますよ
やり散らかして苦しみ続けてきたなら 学び直すとき
何でもいいから前進したい
ハンドルぶっ壊れてるのにアクセル踏み込む
手当たりしだいに方向転換
アクセルぶっ壊れてるのにハンドルいじり続ける

壊れたものを蹴っ飛ばしても動かない
それすらできなくなって ようやく止まる
それが私の人生

本当に必要なことなら必要なときに 必ずできる
無駄に動き回って消耗しない
どんなに長い時間でも
何年でも何十年でも
傷ついた動物のようにうずくまればいい

夢なんてない方がいい

夢なんてない方がいい
叶うと心から信じられるならばそれを夢見る必要はなく
それはすでに夢ではないのだし

夢が何もなければ
それが叶わないという苦しみもない
何の夢もないことがいちばん素晴らしい

夢や希望といった言葉に膠のようについて離れない
偽善と嘘のにおい
それが我慢ならない

諦めず頑張れば夢は叶う?
冗談はやめてください
頑張っても叶わない夢もあれば
頑張らなくても叶う夢もある
叶った夢はその人の人生に必要だっただけ
叶わないのなら「それが叶わないという経験」が必要だった
ただそれだけ

眠っている間に見る「夢」と
将来の希望としての「夢」が
同じ言葉なのはどうしてなんだろう
何故だか
希望という夢を手放していくほど
夜に訪れる夢は色鮮やかになった気がする

人生への意欲とこだわりを捨てるほど
意識のより深部まで撹拌されて浮かび上がる
自分が何にしがみついていたかが見えてくる
なんとなくそんな気がする

 

頑張らないことを頑張る

頑張らないことを頑張ってきた
できないことや頑張れなかったことを諦めるということを学んできた
手放すということを学んできた
逃げ出してしまうということから逃げ出さなかった

頑張ることを生きる目的として
頑張ったことで自分を認めたい人々と
私自身を比較しない
全く違う物差しで測ることに意味はない
意味がないどころか
それは罪悪
自らに振り下ろす鞭でしかない

これは自己弁護のように聞こえるけれど
そうならば今まで
こんなに苦しむことはなかった