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ASDとただの内向的な人の違い

スペクトラムというくらいだから、どこからどこまでがASDだという明らかな境界線はなく、傾向の強い人から弱い人まで連続的に分布していて、そのうえ、傾向が強いから社会的影響も強く、傾向が少ないから生きるのはより楽なはずだということもない。私は診断も受けていないのだし、傾向はそれほど強くないのかもしれないけれど、社会的に活動することがひどく制限され、働くことはおろか外出することでさえ難しいという長い時を過ごした。反対に、傾向が強くても打たれ強くて、辛い思いは抱えつつもなんとか社会に適応はできている人も多くいる模様。

ずっと気になっていたのは、ASDとただの内向的な人との違いはどこにあるのかということ。これも明確な境界はないのかもしれないけど。
私自身はただ内向的な人間なだけで、ASDとは言えないのではないかという疑念が常によぎった。ASDであると思い込むことでそれを盾とし、免罪符としてその後ろに隠れようとしているのだという自戒が鉈を振るう。
どんな人もある程度の仮面をかぶって生活している。大人であれば、いつでも完全に本来の自分自身で社会と接しているという人は皆無だろうと思う。その場に適応しやすい顔を作って、時と場面に合わせてそれを付け替えている。それとASDのカモフラージュとは本質的に違うものなはずだけれど、明確にどう違うのかなと思い倦ねていた。

『世界は私たちのために作られていない』ピート・ワームビー著〜を読んで、その中に具体的で明瞭な答えが見つかった気がした。
内向的な人の仮面は、それをかぶることで平静を装うことができ、自信となるものであり、それはつけ外しでき、たくさんある選択肢の一つである。
ASDの仮面は、生きるか死ぬかの問題であり、パーティーに溶け込むためではなく、人間に溶け込むためのものである。

まさにそのとおりだと思った。私はバーティーに溶け込んで華麗に社交をこなすためでは決してなく、人間社会のなかで命を存えるために死ぬ気で作り上げた仮面をかぶっているんだ。
それはほとんど命懸けの行為であり、仮面なしには生き抜くことができない。人間と接する人間であるためだけに、生まれてこの方一瞬も弛むことなく、仮面が必要不可欠だったんだ。素顔を隠して人を騙し、そのうち自分自身も騙してしまう。本来の自分自身がどんな顔だったのか、既にまったく思い出せない。顔のない人間として、他の人達のコピーを限りなく平均化した社会人の典型例、自分なりに演算しデータ出力した模型を演じて生きるしかない。
一瞬も休まることのない演技の連続で、神経は常にすり減らされて、(この本から引用すると)「今にも充電が切れそうなスマートフォン」のように消耗しきって、いつ駄目になってしまうかわからない終わりのない不安に常にさらされている。だから外にいるだけであれだけ疲れるんだ。なるほど、自分に起こっていることが深く納得できる。

ならば仮面を取って生きたらいい。そう思ってもうまくいかない。仮面無しで社会と接した経験がない。いざとなると自動的に仮面を装着してしまう。今日は変な人と思われようと普通の人を演じるのをやめよう、いくらそう思っていても気づけばいつも通り。仮面無しの自分がどういう言動を取るのか、イメージすらできない。
でも少し他と違うかもしれないと思うのは、精神科の病院にいるとき。そのときだけは普段つねに感じているギリギリの緊張感が少し弱まっている気がする。そこは私が普通の人ではないことが解ってもらえる場所で、他の患者さんたちも皆どこか心に異変のある人ばかりだから。綿密に打ち付けた仮面が少し緩んで、綻びが生じる瞬間なのかもしれない。