SITE MÉTÉORIQUE

Dépôt de Météorites

巨大な弓のような虹

南の島のリゾートらしき場所。
高層階にある、室内の温水のプール、あるいはお風呂なのかわからないが、私はそのお湯に浸かりながら窓の外を見ていた。一面のガラス窓の外には、遥か見渡す限りのブルーラグーン。その手前には様々な形のプールや遊園地のアトラクションのようなものを見下ろすことが出来た。鮮やかな青一色の世界は、ラッセンの絵画のよう。


気づくとその絵画に、虹がじわりと浮かび上がるように描き足された。水平線と、遠くに浮かぶ島とに橋を架けるように。
その直後、もうひとつの虹が、縦の方向に架けられた。天と地に架ける橋のように。巨大な弓のように。最初の虹よりも、二回りほど大きく太い虹だった。虹の上部は眩しすぎて見ることは出来ないが、天穹を突き刺して、優に宇宙へと到達していたはずだ。
二つの虹が垂直に交わった部分は、十四色の光が滲んで溶け合い、得も言われぬ美しさだった。それは白でもなく金でもなく、原始に初めて宇宙に誕生した光があるなら、こんな色をしているだろうと思われる、名付けることのできない色彩だった。


パートナーらしき人が私を呼びに来て、早くあがるようにと促したけれど、私はその場を動きたくなかった。窓の外の世界、青の絵画の世界に自らが入っていったら、何かが壊れてしまうような、何かを見失ってしまうような気がした。その完全なる世界が幻だったのだと気づき、幻滅したくなかったのかもしれない。
パートナーはそれを察したのか、私が安心できるような言葉を話しかけた。その言葉が何だったか思い出すことができない。私は心が一気にほどけ、安心したのと同時に、涙が溢れてくるのを感じたような気がする。その辺りの記憶もなぜか曖昧。

 

記憶を閉じ込める引き出し

机の引き出しに、えんじ色の封筒が入っていた。周囲に細やかな金のエンボス加工がされている、綺麗な封筒だった。見覚えがないので、怪訝な気持ちで手にとった。宛先は間違いなく私だった。


中の便箋には、先日はレストランに来てくれてありがとう、あまり会う機会もなかったけどみんなあまり変わらないね……といった内容が書かれていた。私の本名でなく、ペンネームかハンドルネームのようなものが記されていたけれど、私はそんな別名を使った覚えは一度もなかった。便箋と共に、レストランの詳細が印刷された紙も入っていた。2019年10月オープン。


内容から察するに、手紙を書いたのは学生時代のクラスメイトの男性で、私を含めた数人の女子が、彼が経営を始めたばかりのレストランで、年に一度の定例の女子会を開いた。その礼状ということらしかった。
そこで会ったとされている数名の女子は、たしかに私が仲良くしていた友人たちだったし、卒業後にも何度か会ったことのある人もいるけれど、年に一度の女子会など開いたことはなかったはずだ。
そして、手紙の送り主の男子も、いくら考えても全く思い出せなかった。
狐につままれるというのはまさにこのことだと、はじめは他人事のように思った。次第に、考えれば考えるほど、薄気味悪くなってきた。私はなにか大切な記憶を失っているのか、脳の機能がどうにかしてしまったのか。


とりあえず、机の引き出しにえんじ色の封筒をもう一度しまってみよう。
引き出しを開けると、そこには何十本ものボールペンが折り重なっていて、それらもほとんど見覚えがないものの気がした。ほぼ全て黒の事務的な油性ボールペンだった。各社の油性ボールペンを網羅しているようだ。私はいつの間にか、ボールペンの書き味チェックに没頭し始めた。やはりジェットストリームは書きやすいよな、でも0.5は少し硬い書き味かな?
インクが切れていて、かすれてしまい使い物にならないペンがかなりの割合で混じっていた。というより、まともに使えるものは数少なく、特に書き味の優れたものは何本もなかった。
なぜこんな使えないボールペンばかりが私の引き出しに入っているのか、やはり気味が悪くなった。


父がやってきて、ペンを貸してくれと言う。貸したらきっと返ってくることはないだろうから、インクの切れかけたやつを渡せばいいと密かに思った。その心を読んだかのように、私が一番気に入った白い軸のボールペンを試し書きした父は、これがいい、と言って勝手に持っていってしまった。
私は引き出しの中に、えんじ色の封筒も割り切れない気持ちも書けないボールペンもすべて一緒に押し込めた。そうすればすべてが記憶から消えてしまうだろう。

 

最も美しい愛の在り処

愛、アムール』 2012年、ミヒャエル・ハネケ監督作品を観た。カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作品。
あまりに重く、消化しきれずにところどころ休みながら、時間をかけて鑑賞した。


知的で穏やかな老紳士が、壮絶な介護によって、少しずつ、少しずつ追い詰められていく様子を、抑揚を排したドキュメンタリーのようなタッチで追いかけていく。病院には二度と入れないで、との妻の一言が、夫には心臓にまで達する杭のごとく深く突き刺さったのだろうか。


この世界で、いちばん美しいものはどこに見つかるのだろうと考えた。それはきらびやかな眩しい光の中ではなく、生き生きと躍動する生命のエナジーの中にでもなく、あらゆるポジティブな選択の中でもない。この映画を見た後では、そんな気がしてならない。
明滅を繰り返し消えかかった弱い明かりの中に、完全なる闇とそうでない世界との境界に、袋小路に迷い込んだ魂の中に、最も美しく気高い「愛」の姿は発見されるように思えた。
私も含め多くの人間は、それに気づかないので、発見することができないだけなのではないかと。


部屋に飛び込んできた鳩は、何を意味していたのだろう。何かの暗喩だろうと言葉に無理矢理置き換えたら、どうにも安っぽくなってしまうだろうから、ただ感じるままにしておいたほうが良さそう。
最後のシーン、娘が部屋を訪れても、そこで起こったことにすぐに気付けない。夫婦は他者を排除した二人きりの世界に閉じこもり、その世界を完結させようとした。そこは、たとえ娘であっても入り込むことのできない、夫婦だけの場所だった。

 

汚物を美しい箱に入れる

こんな恋愛ドラマを観た。

彼女は、彼の排泄物を自分の服になすりつけていた。アイボリー色のコートから始まり、全身になすりつけ終わって、彼女はようやく安心したというように、仄かな微笑みを口元に浮かべた。
それは、彼女なりの愛情の表現だった。彼の中から生じた穢れを、身代わりに受け止める覚悟を示す行為だった。彼と友人たちはそのにおいに気付いて、俄にざわめき立つ。


はじめは彼女のやり方に激しい嫌悪感を示す彼だったが、心の裡を知るとともに、彼女の愛はやがて彼へと届き始めた。彼女はいつも言葉少なに、白く煌く満ちた月のような瞳で彼を見つめていた。
彼女は彼の汚物を美しい漆塗りの箱に入れていた。真赤な組紐を大切に結び、愛おしそうにその箱を手のひらで撫でていた。

 

穢れが遺伝する

父の穢れを 父にそのまま返す
私の中から膿を出すということ
膿は綺麗なものじゃないから 汚くて当たり前
汚いものに手を突っ込まなければ
綺麗事で良い人のふりをしていても 何も変わらない


穢れは父のものだから 
暴力を振るう夫が振るわせる妻の方が悪いと主張するのと同じ思考回路で
すべて他人のせいにして自分を正当化しないと生きられない人
それは私自身も同じ
父のせいにして自分を正当化している


いくら外界には私の内面が映っているのだと言っても その内面を作ったのは父だし
父の内面を作ったのもそのまた両親だし
そうやって 穢れが遺伝していくのだ
まっさらに生まれてきた私たちは そうやって汚染されていく


両親が映っているだけで私はどこにも居ないのだし
そもそも私という存在は幻 ゲームの中のキャラクターなのだし
私が解決する問題なのだと抱え込むのは 間違っている
問題は 父に返してあげなければ
父が向かい合い取り組まなければいけなかった問題なのだから
そして問題は自分にはなかったということを 自分で気づかなければいけなかったのだから
それをせずに 私になすりつけるように遺伝させたのは父の罪なんだ


歎異抄」にあるように
悪人だから救われる だめな人間だからなお
膿で汚れた手を見つめながら


清く正しく生きられないことを誇りに思おう
父を憐れみ自分を憐れむことでしか自分を救えないのなら
それでもいいのでは