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不老不死の妙薬

アンチエイジングに必死な人は多いけれど。
もしもその技術がものすごく進化して、誰でも僅かなお金を出せば簡単に若さが手に入る世の中になったとしたら、そのときに「若さ」というものが価値を持ち続けるのかどうか。
そうなったとしたら、きっと価値観の大きな転換が起こるでしょう。自然な老いを受け入れて抗わないことのほうがカッコいい、ということになるかもしれない。多分そうなる気がする。


もしも不老不死の妙薬が開発されて、大量生産の体制に入り値段も下がってきて、簡単に手に入るようになったとしたら?
死というものの捉え方もまるで変わってしまうのではないかな。
不老不死を望むという欲望から開放してくれるもの、死への恐れを取り除いてくれるものこそ、本当の “不老不死の妙薬” なのかもしれない。

 

水を溢れさせる

心のなかに 透明なガラスのコップがある
水が 溢れる寸前まで入っている
あと一滴でも加えたら 溢れてしまいそう
何とかしてこの水をこぼれさせないようにと 必死になっていた


蛇口からなにかの拍子に ぽたりと一滴の水が垂れた
すると思った通り コップから水が溢れてしまった
本当は 溢れたのではない
コップそのものがいつの間にか ふっと消えてしまったのだ
収めるものがなくなって 水はだらしなくこぼれて広がる


すると しっかり閉めたはずの蛇口から 一滴また一滴と 水が落ちてくる
だんだん量が増えて 水はどんどん蛇口からこぼれてくる
汲んでも汲んでも汲みきれないほど 水がほとばしり出てくる


コップの水を守ろうと必死だったのに 一体何が起こったのだろう
コップさえなければ 水が勝手にほとばしり出てくるなんて


とどめておこうとするから 枯渇するかのような幻想を持つ
愛も 豊かさも 溢れさせていい
そうすると もっとたくさん 必要なだけ 湧き出て来るのだ

 

多くを与えられすぎた罰

『バベル』 2006年の映画を観た。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作品。


バベルの塔が崩れて、言葉が通じなくなった。
現代人も天まで届く塔を建てようとした。言葉は既にバラバラでこれ以上奪えない。それでは今度は何を奪われるのか。
当たり前の安定した生活? 失うまでは当たり前だった健康? そばにいるのが当然だった家族?
心にいつも温かく存在するはずの愛?


ライフルを撃ってしまうモロッコの少年も、メキシコ人の家政婦のおばさんも、母を失った日本の聾の少女もすばらしい演技で、個々に淡々と展開してきた物語が、一本の糸で結ばれ、最後に向けてグッと集約されてエモーショナルな渦となり高まってくる。
そこで坂本龍一さんの「美貌の青空」という曲が使われていて、急激に感情が昂ぶるのを感じた。この曲が以前から大好きだったのだけれど、今までに聞いたのとまるで別の曲に聞こえた。私が感じていたのとは別の文脈で使われているような気がしたからかな。
特に日本の女子高生の孤独は底無しに深く、摩天楼が高くそびえ立つほどにその闇も深くなるようで、胸が焼け付くように痛くなった。


この世の苦しみは天空の塔の罰なのか。多くを求めすぎた罰なのか、多くを与えられすぎた罰なのか。その罰から私達が思い知ることは一体何なのか。そこから何を学ぶことができるのか。


罰を与えているのは誰なのか。それは結局、根源的な自分自身なのではないか……?
つまり罰というものは、究極的には愛そのものなのではないか。
そんなことを考えさせられる映画だった。

 

母と娘

そういえば、ネット通販で注文したものが届いていない気がする。期日指定で届くはずになっていたのだけれど、いつだっけ? もうとっくに予定の日は過ぎているのでは? 急にそのことが気になった私は、なぜか近所のIさんの家に確認に行った。
角を曲がり、もうひとつ角を曲がると、白い家が見えてくる。Iさんの家のインターホンを鳴らしたが、残念ながら留守だった。不機嫌そうな冬の風が気まぐれに頬を刺す。
同じ角を戻り、もうひとつ角を戻ると、全く見覚えのない寂れた商店街へ出た。小さな店舗が連なっているけれど、人通りはまったくなく閑散としていて、店の中もがらんとして何を売っているのやらさっぱりわからない店ばかり。


そのうちの一つで、店番をしている三十代くらいの女性と、その子供が二人いた。小さい弟のほうが、私が通り過ぎると後を付いてきた。私が立ち止まると、その子も立ち止まる。私が振り返ると、その子ももじもじとして明後日の方向を見ている。母親の店に立ち寄って欲しいのだろうか?
私は声をかけた。ママのところへ帰りな。おばちゃんはお店には行かないよ。自分のことを自然におばちゃんと言ったことに少し驚いた。十分おばちゃんな歳だけれど、普段そう呼ばれることもないし、自分のことをそう思ってもいなかったはずなのに。
子供は意味ありげな目をして、遠ざかる私をじっと見ていた。


家に帰ると、注文したものが届いていた。他にも沢山のダンボールやリボンの掛けられたプレゼントが、所狭しと並んでいた。クリスマスツリーとその根本に置かれたプレゼントの数々を思い起こさせる。
私が注文したのは、初心者用のアロマオイルのセットだった。母の誕生日のプレゼント。物ぐさな母のために、簡単な道具も揃ったセット品を買ったはずなのだけれど、何本かの精油だけで道具類は何も入っていなかった。仕方なく、私は母に使い方を説明した。空いたプラスチックの容器、ヨーグルトやプリンの容器なんかをとっておいて、そこに精油を垂らして香りを楽しんだら、その容器ごと捨ててしまえば簡単だよ。面倒くさがりの母が器具をまめに洗ったりすることはありえないだろうから。


私と母の他にも、沢山の母娘が居た。届いた荷物の山はみな、娘から母へのプレゼントだった。そしてそれぞれに感動的なシーンが繰り広げられていた。
私の母も、思いのほかアロマオイルを喜んでくれたようだった。中身など何でも構わないのかもしれない。昔、バラ園に行ったことがあったね。いい香りのバラがあったね。母は懐かしそうにそう言った。
バラの咲き乱れる光景が脳裏に鮮やかに蘇った。5月のきらめくような陽光と、痛いほどの新緑と、目深にかぶったつば広帽子の下の笑顔と。
また行ってみようか? そうだね……。私はそれが母と訪れる最後のバラ園になるような気がして、少し怖くなった。

 

カーテンを開けさえすれば

地震など 天災が起こることを いくら心配したとしても
自分でそれを変えることはできないでしょう
心配したから起こるものでもないし 心配しなければ起こらないというわけでもないでしょう
だから 心配するだけエネルギーの無駄


自分自身の身の上に起こることについては?
建設的に考えて行動するのは大事だろうけど
自分で熟考して判断して 選んだ道だと思っていたとしても
そもそもどう考えて 何を希望するか それすらも与えられたものだとすれば
必死に張り切っても所詮 「神」の手のひらの上で走り回っているだけ


あれこれ心配し 身に降りかかることを想定し それに対処する
その行動は 回し車を回っているハムスターのよう


部屋が暗いので あれこれ工夫して配線し 照明を設置して……
その後で気づく
カーテンを開けさえすれば 陽光が燦々と降り注いでいたことに