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Dépôt de Météorites

白い皿を食べる

真っ白で平たい皿が、欠けているのに気づく。装飾を削ぎ落としたシンプルな皿のエッジには、三センチほどの欠けた部分があり、傷口は刃先のように鋭利だった。皿に感情があるとすれば、たしかにそれは、憤りが限界を超えたために出来た噴火口のようだった。

同じ皿がもう一枚あって、それにはかつて何らかの料理が乗っていた痕跡があった。料理を私が食べたのか、誰が食べたのか、記憶にない。何らかのソースが付いたままのその皿を手にとって、パンケーキにかぶりつくように、がりりと噛みついた。確かな陶器の感触だったけれど、皿は簡単に噛みちぎることができた。じょりじょりじょりと音を立てて、私の左右の奥歯によって細かく砕かれた。まさに砂を噛むというような味わい。ごくりと飲み込んだ。細かくなった陶器の破片は、やすりのように喉と食道の内壁をこすりながら、緩やかに体の内部へと落ちていった。その熱いような冷たいような感触は、あまりにも生々しかった。目が醒めてからも、胃に皿の破片が入っているような変な異物感が、うっすらと残っていた。

 

才能を持たないという選択

客観って言葉が大嫌い
「客観」を超えた上でもっと広い視野に立ち
「主観」的に自分の価値を信じられることが必要

中身がないのに自分はすごいと思っている人と
自分を信じて実際にすごい存在となった人とどこが違うのかって
単に才能があったかどうか 持っていたかいなかったかじゃないの?

自分をけなして否定しているよりは 勘違いして自惚れている方がまし
自分が幸せであるかどうかが 何より大事なこと

自分を幸せにする義務は 自分にある
他の誰も 私を幸せにしてはくれない

客観的であろうとすれば 人からの評価に振り回される
社会や他人が認めてくれれば幸せになれるという幻想に染まる
「客観」とは「他人の目」のこと
人にどう見られるかが第一だと宣言する言葉
価値基準を他人に売り渡しますという宣言
本質的に自立せず人に依存して生きますという宣言

世界中に絶賛されても 誰一人認めてくれなくても
自分が自分の価値を信じられるという点では全く同じ
そう考えたら
能力があるかどうかは大して大事なことじゃなかった気がしてくる

そのことを深く知るために 敢えて
才能を持たずに生まれてくるのかもしれない

謎の譜面

私がその譜面を食い入るように見ていたためか、先生は譜面を貸してくれた。それはギターのための譜面のようであり、ピアノの楽譜のようでもあり、そのどちらでもなかった。どうやって読み解いていいかわからない、謎の記号と濃密に絡まりあった私は、不思議な高揚感を得た。

パーティでも発表会でもないのに、何らかの目的で私たちはみな飾り立てていた。私は上半身が真白で、その下は緑と青のインクがにじみ合ったような、薄いシフォン生地のドレスを着ていた。体にタイトなデザインのそのドレスが恥ずかしく、黒の平凡なものに着替えたかった。でも私は楽譜を返さなければならなくて、洋菓子の並んだテーブルの前で待たなければならなかった。マドレーヌのようでマドレーヌでない、クグロフのようでクグロフでない、そんなような洋菓子が三種類。美しく整列した彼らも、誰かを待っているようだった。

ひとりのミュージシャンがやってきた。彼が例の楽譜の持ち主だと一目でわかる。私は、楽譜や楽器のケースや衣装や、様々なものをひとまとめにして彼に返した。彼はいたずらっ子のような眼と、少し意地の悪い高利貸しのような唇をしていた。
彼の音楽に心酔していたことを思い出す。彼は私を気に入ってくれて、様々な音楽の秘密をひそかに耳打ちしてくれた。彼の才能をあれほど尊敬していたと言うのに、暫くの間その事をすっかり忘れていた自分に気づく。すっぽりと抜け落ちたひととき、自分自身が自分のものでなかったような、一度途絶えた川がどこかからまた飄然と流れ始めていたような、奇妙な感覚。

擦れ違い

彼が前方から歩いてきて、私は顔を上げられない。前髪が乱れているだろうことが気になっていた。彼は、私のすぐ前で立ち止まった。私は自分の机が邪魔しているのだと思って、いや、思ったふりをして、机を少し脇へとずらし、通路を広げてあげる。彼はなにか言いたげに一瞬留まったけれど、黙ったまま後ろへと歩き去っていった。彼は真っ赤なボトムスを穿いていた。顔を上げられないので、見えたのはそれだけだった。
隣にいた友人Hが言う。これまでもこの鈍感さで何人も撃沈させてきたね。私はぎこちなく笑うことしかできない。

私たちは客船に乗っていて、自分たちの部屋に戻る。乗船券を確認しに、セーラーカラーの制服を着たドナルドダックみたいなスタッフが来る。私は、壁の窪みにはめられていた小さな置き時計を手にとって、彼に渡す。スイッチはどこですか?と言うので、私が電源を入れた。スタッフは猛然と、人間離れした手さばきで置き時計の表面をスマホのように操作して、一瞬のうちに乗船券を確認し終えた。そのあまりの素速さに思わず、速っ!と口走ってしまった。いつもなら、そんなことをうっかり口に出したりしない。赤い服の彼と擦れ違っただけなのに、気持ちの高揚を抑えられない。機械仕掛けのマリオネットにでもなったようで。
ドナルドは、にやっと意味ありげに笑って時計を返し、煙のように消え去った。

一人になりたい

「一人にして欲しい」という人は本当に一人でいたいんじゃない。「死にたい」という人は本当に死にたいんじゃない。たまたま見ていたドラマでそんな台詞があって、少し心に引っかかった。
たしかに「死にたい」と誰かに言う人は、死にたいほど辛いのをわかってよ、と言っているのと同じで、言葉の通り死にたいわけじゃないんだろう。
でも「一人にして欲しい」というのは、心からそう思うことだってある気がする。

高校の修学旅行で京都に行ったとき、この台詞を本当に言ったことがある。通っていた進学校の雰囲気に、私は未だ慣れることができないでいた。数少ない友人はいたけれど、旅行中、それ以外の気心の知れない人たちと一日中一緒にいるのは、とても息が詰まって仕方なかった。
普段の生活では、一人になりたいと口にする前に、そんな状況になるのをあらかじめ避ける。でも旅行中は班ごとの行動で、固定のメンバーと朝から晩まで一緒にいるしかなかった。同じ班に、いちばん親しかった友達もいたけれど、クラスでいちばん苦手だと思っていた三人組もいた。

二日目の夕食後、二時間ほどの自由時間があり、好き勝手にどこへでも出かけていいということになっていた。気持ちが塞いで、私はどこかへ出かける気力も出ず、我慢することももう限界で、とうとうその言葉を口に出した。疲れちゃって、少し一人になりたいから、私は宿に残るね。
いちばん親しくしていた友達は、ある程度私のことをわかってくれていたのか、心の中でどう思ったかはわからないけれど、何も言わずそれを尊重してくれた。彼女は他の子たちと一緒に出かけ、私は望み通り、宿の部屋で一人になった。

何をするわけでもなく、ぼんやりと座ったまま、取り留めのない考えを巡らせた。そのような時間が持てないと、私は窒息してしまう。
一時間ほど経ったとき、まだ自由時間の終わりには早いのに、苦手に思っていた三人組が戻ってきた。なぜ早く戻ってきたのか、訝しく思ったけれど、何も訊かなかった。彼女たちもそれについて何も言わない。結局、部屋で私たちは一時間ほどお喋りをして過ごした。多分、三人組は私のことを心配して、せっかくの自由時間を切り上げて、途中で戻ってきてくれたのだ。

悪い気はしなかった。彼女たちの思いやりに、直接には言えなかったけれど、心の中で感謝の思いも抱いた。それでも、どこか判然としない感情が残った。彼女たちは親切だったし、私を心配してくれた。けれど、それは私の望みではなかった。
後々まで考えることになった。きっと彼女たちの、容赦のない夏の太陽のような善良さ、それこそが彼女たちを苦手に思った理由ではなかったかと。彼女たちは良いことをしたと信じて一ミリも疑わず、自分たちの行為を内心で自画自讃していたはず。その自讃のために利用されたような気分にさえなったのは、私の心が歪みすぎていたから?

わがままな心は、逆のことも想像した。誰一人として私を心配して戻ってきたりせず、自由時間の終了まで一人でいたとしたら、どこか放って置かれたような寂しさを感じなかっただろうか。親友は実際に、終了時間まで帰ってこなかった。どうせなら、あの三人組より親友に戻ってきてほしかったと、ちらっとでも心を過ぎらなかっただろうか。

帰りの新幹線で三人組は、並んで座れる席が見つからず、意地を張って別々に座ることを拒み、到着までずっと立ったままだった。ふくれっ面で不満げに立っていた三人の姿。
そんなことを、ふと思い出した。