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月の魔術

月が雫をこぼしてる! あれは月の涙かな? あっ、いま月が裏返ったよ!
私は誰かと手をつないで歩きながら、ずっと夜空を見上げつづけている。月が私たちを観客に手品でも披露しているかのようで、一瞬も見逃せない。いつもと同じように黄色いその色が、何かとても新鮮な、初めて見る色彩のように感じる。

月は泣いたり笑ったり忙しい。月の涙は黄色く半透明で、夜空に散ったあと、きめ細かいスポンジのような闇に吸い込まれて消える。あの雫はどんな味がするのだろう。舌の上で想像する。ほの甘く、清らかな味だろう。
月がこんなに感情豊かだったなんて知らなかったねと、長い坂道を下りながら、私たちは話した。真黒な甍の上を、墨で描いたように雲が低く流れていた。この世界は月のためにあり、ただ月のためだけに用意された舞台であるのだと気づいた。

巨大ハンバーグ定食

ラグビーボールくらいの大きなハンバーグステーキを食べる。ランチのセットを注文すると、その巨大ハンバーグ、ライスとサラダの小鉢がが出てきた。周りの人たちも当然のようにそれを平らげている。そんなものなんだと思って、私もそれを食べる。食べきれないと思いきや、なんとか完食する。満腹で内臓が重く感じる。血管をデミグラスソースが流れているような感覚。

翌日、食卓に家族の人数分のお弁当が置いてあり、それぞれ好みのものを選んで食べ始めていた。最後に一つだけ残されていたお弁当は、昨日の巨大ハンバーグ定食と全く同じ内容だった。またそれを食べるしかない。もう肉食は卒業したいと願っているというのに、偶然が私を弄び、嫌がらせをしてくるようで不思議だ。
うんざりしながらも、二日目の巨大ハンバーグも完食する。こんな気持でいただくのは、肉を提供してくれた動物にも申し訳ないと思うけれど、もううんざりだという思いが、肉汁のようにとめどなく溢れ出て仕方ない。

シャガールの恋人たち

私たちはバスツアーのようなものに参加していた。ツアーというよりも、もっと大きな意味での旅、民族が大移動するような旅だった。ある小さな町で停まり、古びた風情のある町並みに、土産物店が幾つも並ぶなかを歩き回る。周囲の人々はすべて同じ移動に参加している仲間だったけれど、知っている人はパートナーの彼以外誰もいなかった。

ワイン色のどことなく地味なロングカーディガンと、黒の落ち感のある生地のロングスカート。自分の着ているものがとても時代遅れで格好悪い気がして、恥ずかしかった。ツアーの参加者はみなそれぞれにその人らしく自分に似合うものを知っていて、存在感のあるお洒落な人ばかり。自分の軸をしっかり持っているという印象。知らず知らず比較して、劣等感を抱いている。

パートナーが歩いてくる。灰色のもやのなかに、さっと一筋の陽光が射す。背後に陽射しを背負い、横顔を光が縁取った。振り返り、眩しそうに目を細めるその様子を私は見ていた。彼は古くなってヨレヨレのダウンコートを着ていた。吐く息が白く煙った。その光景は完璧に美しく、自分はこの人にふさわしいだろうかと少し怖くなった。

私たちは一軒の店に入る。店の内部には藁が敷き詰められてあり、その上に鶏の首がふたつ転がっていた。切断された鶏の首は一見おもちゃのようで、気味悪さは何テンポも遅れてやってきた。気味悪いのに、笑顔が崩せない。笑ったままでゾッとする感情を味わい、店から駆け出した。
私たちは手を取り合って走り、腕を絡ませたり、氷上で踊るスケーターのようにくるくるとお互いを振り回したりした。シャガールの絵画の恋人たちのように、現実にはありえないような体勢をとって、アクロバティックに走り続ける。楽しくて仕方ない。

私たちは、夜の公園にたどり着いた。(家の近くに実際にある公園だった。)公園の中に足を踏み入れると、砂の上にテディベアが何体か落ちていた。ひとつを拾い上げてよく見ると、細い枯れ枝がたくさんついていて、棘が刺さっているかのように見える。青いギンガムチェックのバンダナを首に巻いたそのベアは、闇の中で私をじっと見上げた。かわいそうだから、この子たちを連れて帰ろうかと、彼の瞳を見つめてテレパシーで話しかけた。彼は、好きなようにすればいい、それを尊重するよとテレパシーで返してきた。

よく見ると、テディベアは六体あって、時計の七時から十二時の位置に置かれている。誰かが残りのベアを持ってきて、時計を作るつもりでいて、今はその途中なのだと直感した。夜明けとともに時計作りは再開されるのだ。勝手に持ち帰る訳にはいかないと分かり、後ろ髪を引かれる気持ちでギンガムチェックのベアとお別れした。

シャガールの絵みたいな雰囲気だったと、書き出してから気がついた。鶏もシャガールによく出てくるモチーフだし。

濡れたポケット

私は数学の教師だった。教師なのに、生徒のように教室で着席して、授業を受けている。数学をどう指導するかという授業らしい。私は、高校生なら皆学んだはずの簡単な問題に四苦八苦する。もう卒業してだいぶ経つから、忘れてますよね?忘れてませんか? と周囲に同意を求めるけれど、冷たくあしらわれる。
同僚の数学教師Cが私の前の席にいて、私のざまを笑っている。それは侮蔑の笑みではなく、まったくしょうがないなぁという台詞で置き換えられる、慈愛に満ちた微笑みだった。

彼は、小さな瓶に入った乳酸菌飲料を飲んでいる。はっと思い出して、履いていたショートパンツのポケットに手を入れる。空だった。ポケットの内部は少しだけ湿っていた。飲料の小瓶を入れたままにして忘れていたのだ。冷えた小瓶は結露して、ポケットを濡らしていた。彼の飲んでいる飲料はどこから持ってきたものか問いかける。彼は笑いながら、脚で私のショートパンツのポケットを指し示した。分厚いストッキングを履いた私の脚に、彼の脚が一瞬触れた。その瞬間、永い時を越えて彼に想いを寄せてきたことを思い出す。放流されたダムのように一気にあふれ出す記憶。濡れたポケットがじんわりと冷たさを肌に伝えている。

闇のなかに、彼と私はふたりで沈んでいく。辺りはあまりにも暗く、ふたりの腰掛けているベンチの硬い木材の感触以外、なにひとつ確かなものがない。心許なく、私は思わず彼の手を掴んだ。返ってきた言葉はすべて想定したとおりだった。これ以上無く優しい言葉を選び、彼はひとつひとつを入念に配置した。彼には三人の子供がいて、守らなければいけないものがあるということ。手に入らないものばかり求めてしまう理由も、闇の底に落としてしまったままで、何も見えない。

跡目争い

ゴッドファーザーみたいな映画を見ている。あるいは本当にその世界を生きている。どちらかわからない。
私はマフィアのような悪い組織の、ボスの三男だった。長男は、勢いばかりで実の伴わない、思慮に欠ける人物。次男は、臆病で無責任。三男の私は、一見善良でマフィア一家にそぐわないような好青年だけれど、一皮剥けばとても腹黒い。将来の跡目争いに向けて、十分な下準備をしている。長男と次男の側近は私が送り込んだスパイだったし、あらゆる情報は筒抜けだった。組織には全く興味がなく、跡を継ぐ意志など露程もないと周囲に信じ込ませることにも成功している。父の信頼も得ているが、万が一のときには、兄二人を抹殺してでもすべてを手にする決意は固まっているし、それも計画に組み込まれている。

何もかもうまく行き過ぎて、入念な計画などはじめから必要でなく、ただ黙っていても後継者の座は転がり込んできた気がする。知略を無駄遣いしたようで、すべてが無駄な努力だったかのようで、悔しいような、物悲しいような気分。手に入るとわかった途端に、その宝はにわかに輝きを失う。ボスの座についたところで、どれほど満たされるものだろうかと疑い始めている。