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濡れたポケット

私は数学の教師だった。教師なのに、生徒のように教室で着席して、授業を受けている。数学をどう指導するかという授業らしい。私は、高校生なら皆学んだはずの簡単な問題に四苦八苦する。もう卒業してだいぶ経つから、忘れてますよね?忘れてませんか? と周囲に同意を求めるけれど、冷たくあしらわれる。
同僚の数学教師Cが私の前の席にいて、私のざまを笑っている。それは侮蔑の笑みではなく、まったくしょうがないなぁという台詞で置き換えられる、慈愛に満ちた微笑みだった。

彼は、小さな瓶に入った乳酸菌飲料を飲んでいる。はっと思い出して、履いていたショートパンツのポケットに手を入れる。空だった。ポケットの内部は少しだけ湿っていた。飲料の小瓶を入れたままにして忘れていたのだ。冷えた小瓶は結露して、ポケットを濡らしていた。彼の飲んでいる飲料はどこから持ってきたものか問いかける。彼は笑いながら、脚で私のショートパンツのポケットを指し示した。分厚いストッキングを履いた私の脚に、彼の脚が一瞬触れた。その瞬間、永い時を越えて彼に想いを寄せてきたことを思い出す。放流されたダムのように一気にあふれ出す記憶。濡れたポケットがじんわりと冷たさを肌に伝えている。

闇のなかに、彼と私はふたりで沈んでいく。辺りはあまりにも暗く、ふたりの腰掛けているベンチの硬い木材の感触以外、なにひとつ確かなものがない。心許なく、私は思わず彼の手を掴んだ。返ってきた言葉はすべて想定したとおりだった。これ以上無く優しい言葉を選び、彼はひとつひとつを入念に配置した。彼には三人の子供がいて、守らなければいけないものがあるということ。手に入らないものばかり求めてしまう理由も、闇の底に落としてしまったままで、何も見えない。