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Dépôt de Météorites

交換日記

黒い表紙の分厚いノートが送られてきた。ベルベットのような手触りの黒の表紙に、黒のゴムがかけられた、B5サイズ程の立派なノートだった。それは、Y君と私の間でやり取りされている交換日記のようなものだった。
ノートはすでに厚みの半分ほどまで、ぎっしりと文字で埋められていた。パラパラとめくってみる。踊りだしそうな躍動感のある文字だったり、神経質な細かい文字だったり、酔っ払って書いたような罫線をはみ出した文字だったり、いろいろな筆跡がそこにあった。しかしそれは全てがY君の書いた文字で、私の書いた文字はどこにも見当たらなかった。


なにか返答を書いて送り返さないといけない。けれど私には書きたいことがなにもなかった。Y君と共有できそうな体験がひとつも思い当たらない。
送り返さないで、このまま連絡を絶ってしまおうか。そうすれば楽かもしれないけれど、どこかで罪悪感が小さく叫んでいる。私は悪者として誰かの記憶に残りたくなかった。それでもY君の気持ちは私にとってとても負担に感じられるもので、無駄な期待をさせるほうが罪な気もした。いずれにせよ、自分の狡さに直面させられる。


私は黒いベルベットのノートをボストンバッグにしまった。太くて厳ついファスナーは思いのほか大きな音を立てて唸り、バッグの口を几帳面に閉ざした。
私の地味で古臭いボストンバッグの隣に、友人Sのバッグが並んで置かれていたはずなのに、いつの間にかなくなっている。Sのバッグは黒を基調としてところどころに鮮やかなフューシャピンクのラインが入っている、スポーティなスニーカーを思わせるデザインだった。
あのバッグはどうしたの? 私が尋ねると、宿泊料の代わりに物納するようなシステムがあって、既にあのバッグはその支払いのために手放したのだと言う。そうすれば、次々に新しいバッグに乗り換えることができるのだそうだ。
そんなシステムがあるのか。何も知らなかった世間知らずな自分が恥ずかしくなった。けれど私には、そんなふうに鞄を乗り換えて生きることはとてもできそうにない気がした。

 

エメラルドグリーンの森

胸の奥には やわらかな水を湛えた 小さな池がある
優しく秘められたまま 忘れ去られた池は 凍りついたように静かだった
じっと水面を見つめる


すると 池の中心から ボコボコと湧き上がってくるエネルギーがある
やがてそれは噴水のように 高く噴き上がった
水はどこまでも透き通り 光を纏ってキラキラと輝きながら 舞い散っている


噴水の中心が だんだんと綺麗なエメラルドグリーンに染まっていく
温かくやさしい 母のような波動
やがて噴水の周辺へと幾重もの波紋を描いて エメラルドグリーンが広がる
穏やかに でも確実に 広がっていく そのパルスが感じられる


池全体が 綺麗なグリーンに染まり尽くした
その波紋のエネルギーはますます強まり 池の外まで続いていく


池の周辺には 一面の砂漠
その砂に どんどんエメラルドグリーンの水が吸収されていく
驚くほどのスピードで エメラルドグリーンの水は砂を潤しながら広がっていく
砂は黒々とした肥沃な土となり やがて小さな芽がたくさん生えてきた
芽はぐんぐんと育って 若い木になっていった


木はどんどん育って 早送りのVTRでも見ているように みるみるうちに森が形作られていく
小さな池の畔から 砂漠が土になり 小さな芽が出て 木となって大きく育っていく……
その波紋の連鎖が どこまでもどこまでも果てしなく広がっていく


数百年の時は 一瞬に凝縮されていた
胸の奥の小さな叫びが その一瞬を破裂させたのだ
私はそれを ずっとずっと待っていた
今や世界は美しい森で覆われ 神々しいほど美しいエメラルドグリーンの光に満ち溢れる

 

電脳銀河に融ける

高卒認定試験を受ければ、高校に通わなくてもいいんじゃないか? そんな考えが突然湧いてきて、私はまるで天啓でも受けたように厳かな気持ちになった。なぜ今までそれに気づかなかったのだろう。すごいことに気がついてしまった!


ターコイズブルーのiMacを起動した。すると丸っこい形でスケルトンの、見慣れたはずのiMacも今までとどこかが違う気がした。四角い画面のなかに、macOSという起動画面の文字に、無限の奥行きを感じた。このなかにまったく新しい宇宙がある。


高卒認定試験について調べようとする。新しい宇宙を内包したiMacには、本来はついていないはずのトラックパッドがついていて、非常に感度も良かった。指だけで思いのままにカーソルを動かせる。いや、私の思いの数段上を行く、素晴らしい動きをトラックパッド自身の判断で行っているように思えた。
何もかもが私の願いの数段上を行く、新たな世界に検索をかける。体ごとこの画面に吸い込まれ、0と1だけのデジタル信号に分解されて、完全に自由な銀河に融けていく。そんなイメージが私を酔わせた。

 

集団のなかの無感覚

『少年が来る』 ハン・ガン著 読了した。

この作家さんの作品は、『菜食主義者』『すべての、白いものたちの』に続き三作目。
詩的で静謐さを湛えた文章と、軍事政権下の弾圧という内容は全くマッチしないような気がしていて、読む前にはどんな内容になっているのかイメージが湧かなかった。


読んでみると、社会的な問いかけ等と言うよりは、一個人の内面に秘められてどこにも行き場のなくなった苦しみを、凄まじいほどの解像度の高さで描き出した……そんな内容だった。
ほんの何十年か前の隣国で、軍人が市民に対してどこまでも野蛮な行為を行っていたという事実に愕然としたという、当たり前の感想も抱いたけれど、それ以上に、その被害を被った人にとって、人生の全て、魂にまで刻まれてしまった恥辱と恐怖とを拭い去る手段がどこにもないということに、あらためて愕然とさせられた。
それなのに社会は何事もなかったように日々を迎え、日々を終えていく。人々は食事し、生活し、働いて、また眠る。信じられないことは、あの凄まじい悪夢を経験した彼ら彼女ら自身も、同じように日々生活をしている、ということ。


人は、一体どこまで残虐になれるのだろう。
人間は集団心理の中で、極めて善良にもなり得るし、極めて残虐にもなり得る。それは集団の中で呼応され、共鳴され、幾重にも重なり合ううちに、自覚のないままに巨大な、混沌とした塊となり、自重で転がっていく。そこに責任者は存在しない。
性善説か、性悪説か、といった問いは無意味な気がする。集団の中で正義とは何かというコンセンサスが出来上がり、それに従っているのだから。悪いことをしているつもりはないのだから。隣の人と同じであろうとする心、共振の形をとった、一種の集団催眠であるという部分も大きいと思う。


これは平和な社会にだって、形を変えて存在していると思う。
有名人の不祥事を、誰もが裁き、徹底的に追い詰めるような世論が出来上がる。不祥事を起こした側は確かに悪いことをした、だから叩いても良いのだという空気が一旦出来上がれば、ただ叩くことが目的となって暴走していく。どの年代、どの集団にも見られるいじめも同じ。
軍人による常軌を逸した暴力と同列に並べることは勿論出来ないけれど、程度の差こそあれ、こういう現象も根底には同じものがあるのではないかという気がする。それに知らずに加担することがないように、自分の心を整理整頓し、磨いておきたい。自分がどこに立脚しているかに常に気づいていなければ、とあらためて感じた。


「拷問を受けるということは、放射線を被曝することとよく似ている」そうだ。一度変質した染色体はもとに戻ることはなく、じわじわと、生涯にわたり、放射能は体を蝕みつづける。


どんな人生の苦難も、自分自身がそれを体験すると決めてこの世界にそれを生み出しているのだと言うけれど、想像を絶する苦しみのなかにある人に、その苦しみはあなた自身がもたらしたものだと、たとえ真実だとしてもそう突きつけることはできない……。人はみな、その人に見合ったサイズの喜びや悲しみを体験するようになっていると言うけれど、だとすれば底無しの苦しみを抱えて生きる人々は、素晴らしく高貴な魂の持ち主なのだろう。

 

闇に沈みゆく岩

歯科医に行く時間が迫っていた。3時20分の予約で、もう間に合いそうもない。鉛のような脚と心を奮い立たせて、私はようやく歯科医院まで辿り着いた。
いつものように受付を済ませ、いつものように待たされる。一秒一秒が身体に食い込むように通過していく。なんでもないはずのそんな時間を、判決を待つ被告人のように味わい尽くす。


ようやく呼ばれて、診察台の上でまた待つ。歯の治療が怖いわけではない。それは恐怖とは違う、嫌悪感とも違う、あえて言うなら「違和感」を百万倍くらいに拡大させた感情。外の世界と接するときに必ず去来するそれは、私の生命力を最も浪費させるものだった。
歯科医がやってきて、簡単に口の中をチェックする。数十秒の沈黙の後、治療は次回からしますので予約をとってください。ほんの五分ほどで待合室に返された。
苦しみ抜いてようやくやってきて、耐えに耐えていたのに、また次回同じことを繰り返せと言われ、私は怒りを感じることも出来ず、湖に沈んでいく岩のように無力だった。


次の瞬間、私は古びた映画の撮影場のような場所に居た。木造の建物の中は柱や梁などがむき出しになっていて、何とも殺風景だった。撮影に使われるような衣装が雑然と並び、小道具類が床の上に散らかっていた。窓がなく、内部はとても暗く、私はその中を手探りで進んでいた。何人かのスタッフの顔が、ぶら下がった小さなライトに照らされていた。けれど誰も私のことを知らなかったし、私も彼らを知らなかった。
突然恐ろしくなって、自分の呼吸音だけが聞こえる闇の中を、必死に出口へと向かった。


なんとか外に出ると、既に真夜中だった。建物の中と何ら変わらない黒い闇のなかを、家へと歩いた。太い道路を渡ろうとするけれど、車がひっきりなしにやって来る。銀色のヘッドライトが冷たい秩序を保って流れていく。この暗さでは歩行者は目に映らないに違いない。私は諦めて迂回をすることにした。


空に月もなく、星もない。夜が呼吸をするたびにひとつひとつ吸い込んでいったかのように。
人けの全くない住宅街を一人歩く。家々は眠りについた獣のように静かだった。世界中に人間は私一人だけのような気がする。家へ帰っても、どこへ行っても、この無謬の闇のなかに閉じ込められたまま。窒息しそうに息苦しく、喉元に手をやった。