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集団のなかの無感覚

『少年が来る』 ハン・ガン著 読了した。

この作家さんの作品は、『菜食主義者』『すべての、白いものたちの』に続き三作目。
詩的で静謐さを湛えた文章と、軍事政権下の弾圧という内容は全くマッチしないような気がしていて、読む前にはどんな内容になっているのかイメージが湧かなかった。


読んでみると、社会的な問いかけ等と言うよりは、一個人の内面に秘められてどこにも行き場のなくなった苦しみを、凄まじいほどの解像度の高さで描き出した……そんな内容だった。
ほんの何十年か前の隣国で、軍人が市民に対してどこまでも野蛮な行為を行っていたという事実に愕然としたという、当たり前の感想も抱いたけれど、それ以上に、その被害を被った人にとって、人生の全て、魂にまで刻まれてしまった恥辱と恐怖とを拭い去る手段がどこにもないということに、あらためて愕然とさせられた。
それなのに社会は何事もなかったように日々を迎え、日々を終えていく。人々は食事し、生活し、働いて、また眠る。信じられないことは、あの凄まじい悪夢を経験した彼ら彼女ら自身も、同じように日々生活をしている、ということ。


人は、一体どこまで残虐になれるのだろう。
人間は集団心理の中で、極めて善良にもなり得るし、極めて残虐にもなり得る。それは集団の中で呼応され、共鳴され、幾重にも重なり合ううちに、自覚のないままに巨大な、混沌とした塊となり、自重で転がっていく。そこに責任者は存在しない。
性善説か、性悪説か、といった問いは無意味な気がする。集団の中で正義とは何かというコンセンサスが出来上がり、それに従っているのだから。悪いことをしているつもりはないのだから。隣の人と同じであろうとする心、共振の形をとった、一種の集団催眠であるという部分も大きいと思う。


これは平和な社会にだって、形を変えて存在していると思う。
有名人の不祥事を、誰もが裁き、徹底的に追い詰めるような世論が出来上がる。不祥事を起こした側は確かに悪いことをした、だから叩いても良いのだという空気が一旦出来上がれば、ただ叩くことが目的となって暴走していく。どの年代、どの集団にも見られるいじめも同じ。
軍人による常軌を逸した暴力と同列に並べることは勿論出来ないけれど、程度の差こそあれ、こういう現象も根底には同じものがあるのではないかという気がする。それに知らずに加担することがないように、自分の心を整理整頓し、磨いておきたい。自分がどこに立脚しているかに常に気づいていなければ、とあらためて感じた。


「拷問を受けるということは、放射線を被曝することとよく似ている」そうだ。一度変質した染色体はもとに戻ることはなく、じわじわと、生涯にわたり、放射能は体を蝕みつづける。


どんな人生の苦難も、自分自身がそれを体験すると決めてこの世界にそれを生み出しているのだと言うけれど、想像を絶する苦しみのなかにある人に、その苦しみはあなた自身がもたらしたものだと、たとえ真実だとしてもそう突きつけることはできない……。人はみな、その人に見合ったサイズの喜びや悲しみを体験するようになっていると言うけれど、だとすれば底無しの苦しみを抱えて生きる人々は、素晴らしく高貴な魂の持ち主なのだろう。