SITE MÉTÉORIQUE

Dépôt de Météorites

キラキラへの反発

高価なものを身につけて派手に着飾って
賑やかで華やかな
キラキラした女子たちが嫌い
そう思えば思うほど
自分は暗く地味で化粧気なく
人に見せたくない恥ずかしい自分になっていく
高価なものなんか要らない
着飾るのなんか嫌だ
化粧なんかしたくない
それが本音かどうかわからない

外側にどう見えるかを意識したハリボテでなく
本物の豊かさや輝きだったとしても
それでも欲しくないの?

人に見せたくないような綺麗じゃない自分を
まだ否定して価値をジャッジして
キラキラ輝くのが良いことだと認識しているから
それに価値をおいているから反発するだけ

価値からはみ出た自分をなんとか弁護したいから
言い訳をしたいから
本当に要らないと思うものなら
それを嫌ったりしない
無関心になるだけ

寝起きのままボサボサな頭で
すっぴんのままで
着心地の良い楽な格好だけして
寛いでいたい自分
欲しいのは自己弁護じゃなくて
無条件の愛

 

援護射撃

他の人の言うことを何もかも真に受けて
一人で勝手に苦しんでどうするの?
それが善良な印だとでも思っているの?

自分の感覚を他人のより信じてやらずにどうするの?
自分の感覚を汲み上げられるのは世界に自分ただひとり

自分の味方になって援護射撃をしてやらなくてどうするの?
自己弁護するようで格好悪いとでも思っているの?

人の味方をして自分に弾を撃ち込んでどうするの?
自分を攻撃すれば客観的ですねと褒めてもらえるとでも?
他人に優しく自分に厳しく
自分の敵になるのが道徳的だとでも?

人の美点と自分の欠点を比べてどうするの?
謙遜が過ぎればただの自己否定

自分を過信して行き過ぎることを防ぐには
人と比較し自分を振り返ることも必要かもしれない
すぐに自分を見失い人に合わせることばかりだった人間に
必要なことはそれじゃない

攻められてやられっぱなしの愚か者
一度くらい反撃してごらんよ

 

副反応

母が5回目のコロナワクチン接種後、帯状疱疹を発症してしまった。何となくだけれど嫌な予感のようなものがあり、今回のワクチンは打たなくてもいいんじゃない?と母に言おうとしたけれど、既に予約をしてしまった後だったし、母の真面目な性格から言っても予約してしまったものを取り消すということを良しとしないだろうと思ったので、何も言わず黙っていた。
今となっては後の祭りだけど、何とはなしに感じたあの不快感をもっと大事にして、強く言えばよかった。とても痛がっているので申し訳なくなる。

あの虫の知らせのような感覚、本当に小さな小さな囁きに耳を澄ませて、それを捉えたら増幅して、聴取可能なまでに育てなければいけなかった。直感を素直に受け取ることをいつも念頭に置いていたはずなのに、自分事でなかったのもあったのか、全く素直にならずに力任せに蓋をしてしまってたんだ。

コロナワクチン接種の直後だったので、関連があるはずだと思って検索してみたら、やはりコロナ罹患の後遺症として、またワクチン接種後に、帯状疱疹を患うケースが増えているらしい。現場の医師の肌感覚では大幅に増えていると感じるようだけれど、関連性が証明できるわけではないし、コロナ下の精神的ストレスによって発症したという、何でもストレスと関連付ければうやむやにできる必殺技によって、ほぼ覆い隠されていると言って良いのではないかと思った。
アメリカでは、コロナワクチンと帯状疱疹発症の因果関係は認められないというデータまで早々に発表されていたとか。これ、信頼していいの? 薬屋さんと仲良しの人達が便宜を図った? 恐怖を煽って囲い込むやり方を、政府ぐるみでやっているとしたらどうしようもない。

身体に異物を入れるのに抵抗があり、私は一度も接種していない。接種していない事を病院などで明言しても変な目で見られたこともないし、何の問題も感じたことがない。その判断は正しかったかもしれない。

薬もワクチンもごく稀に副反応が出るのではなく、効能と同等かそれ以上の副作用があると思っていたほうがいい。今飲んでいる抗鬱薬も、目眩や痺れなどの副作用は感じているし。時折、目を閉じている時、闇の中に幾何学模様のようなものが万華鏡を覗いているように見えることがある。以前別の抗鬱薬を飲んでいた時はもっと頻繁に感じたのを思い出す。その時は怖くなって、効き目もあまり感じなかったこともあり服薬をやめてしまった。脳が幾何学模様に侵食され、支配されていくような──薬は生命体の調和にとっては異質なものでしかないと知らしめられるその感覚。

今回の薬はよく効いたので、減量しながら飲み続けているけれど、早く飲まなくて済むようになりたい…。とはいえ、薬のおかげでこれだけ回復しているのだから、感謝すべきか。

 

黄色い花の残像

こんな冬の盛りに
玄関先のコンクリートの割れ目から
黄色いちっちゃな花が咲いていた
可愛らしい雑草を思わず手折って
小さい花瓶に活けた けれど
そのままにしてあげればよかったと後で思った

隣の敷地はかつては砂利が敷かれていて
その隙間からたんぽぽが咲いていた
ネルは散歩のときに何故だか
たんぽぽに寄って行きたがった
黄色い花がネルによく似合っていた
花は大量に栽培するものでなく
こうやって密やかに咲いていて欲しい
人を魅了しないと存在価値がないと宿命付けられる
クローンのように並んだ切り花はどこか残酷で
胸が苦しくなる

誰にも見つからず
物陰で何も主張せず
ただ咲いて枯れていく生命の美
たんぽぽが溢れていた敷地には
去年新しい家が建って
記憶の中に引っ越しを余儀なくされた
ネルとたんぽぽの残像

 

人の目に神を見る

人の目を見て話しなさいと、注意する声。幼い時から今に至るまで、人の目を見るのがとても苦手で、耳が痛くなる。知らない人の目を見るのも怖いし、知っているけど親しくない人も場合も、どうしても、変に意識しないと自然に見られない気がする。
緊張しないように、不自然にならないように、相手の眉毛を見ればいいとか、眼と眼の間を見るといいとか、色々試してきたけれど、これという方法が見つけられなかった。

だからか、アイコンタクトというものがよく解らない。子供の頃、私に向けて視線で合図されているように感じ、相手に向けて手を振ったら、自分の後ろにいる人に対してだったということがよくあり、身も縮こまるような恥ずかしい思いをして、相手の視線の先を上手く読めていないのではと自信がなくなった。

眼の中の光というのは、魂そのものを現しているように思える。その人の本質が現れ、その光を確かに分析することが出来たなら、魂のDNAのようなものが検出されると思う。
人の自意識の部分じゃなく、魂の本質を見るようにできたら、そこに恐怖なんて入り込めないんじゃないか。恐怖を感じるということは、私自身が自意識の部分で相手に向かい合っているという証拠なんだろう。

相手の中の神を見る、と言うと大袈裟だけれど、人々の根源にある愛にアクセスできればいい。それだけを見られるようになれたらいい。
そのためには、自分の中の愛の部分に触れているようにすることしかないのだと思う。愛として存在し、話し、行動すること。自分のすべてを赦すこと。