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Dépôt de Météorites

出版記念サイン会

百貨店に買い物に来ている。エスカレータを上っていると、横にポスターが張ってある。アイルトン・セナ出版記念サイン会。赤いレーシングスーツを着た写真とともに、サイン会の詳細が書かれていた。
心が俄にさざめき立った。こんなところに本物のセナが来るとは! 一瞬のうちに思考はスパークする。なんと話しかけたら良いものか。英語は苦手だしな。来てくれてありがとうお会いできて光栄です、くらいは彼の母国語で話しかけたいなものだな。でもオブリガード(ありがとう)くらいしか知らないじゃん。


エスカレーターの何人か先に、金髪の背の高い女性が乗っていた。長い髪を束ねて団子状にまとめ、ベージュのノースリーブワンピースを着ている。私のすぐ後ろに立っている中年女性のコンビが、ヒソヒソと話しているのが耳に入る。あれ、セナの彼女じゃない? そうだよ絶対そう。
金髪女性のワンピースをよく見ると、上半身は細かく編まれたニットで、髪の毛ほどの細いモヘアを丹念に編み込んで、立体的な幾何学模様が浮かびあがるようになっている。首元はドレープ状に撓んでいて、繊細ながらボリュームがある。希少な伝統工芸品を身にまとっているかのようだ。あの超高そうな服、間違いないよ、と後ろの二人組が言う。


エスカレーターが折り返すところで気づく。金髪女性のさらに数人先に、外国人男性がいる。あのヘアスタイルはもしかして! セナ本人に間違いない! つま先立ちにチラチラと見るけれど、振り向いてくれないので顔が見られない。彼女が周囲の目を引くのに比べて、セナ本人と思しき人物はあまり派手さがなく、オーラもなく、ごく普通の人の空気をまとっていた。
次の階で、彼らの一行はエスカレーターを離れ、人混みの中へと紛れて消えていった。


もう一度ポスターをよく見ると、サイン会の時間はもうとっくに過ぎてしまっていた。ああ残念。その一方でどこかホッとしている気持ちもあった。
後ろの二人組のおしゃべりは続く。彼女らはサイン会に行ったようだ。“アリベデルチ” と言ったけどセナはブスッとしていて返事もしてくれなかった、と話している。それはポルトガル語でも、“ありがとう” でもないんじゃ? と心の中で突っ込む。アリベデルチはイタリア語の “さようなら” 。おかしくて忍び笑いをしている自分に気づいて目が覚めた。

 

ファクトチェック

「ここの浴場は怪しいらしい。浴場としてもエステとしても営業許可を受けてないらしい」と報道局の先輩が言った。「じゃ何で許可を得たんでしょう?」と私が尋ねると、「倉庫」と先輩は言った。「ファクトチェックは大事だな。ニュースはファクトだ」先輩はそう続けた。


倉庫として許可を得て営業している浴場? 何だそれ。私たちは泊まっているホテルの地下にあるらしい大浴場の話をしていた。そのホテルのパーティーのようなものに参加している。バーティーと言ってもカジュアルなものだったが、混んだ電車の中のように身動きが取れない。立食パーティーというより単に混んでいて座る席がないだけにも見えた。


会場のスクリーンでは古いテレビドラマが放映されている。一昔前のもので出演者が皆若い。温泉のシーンでヒロインがバスタオルを体に巻いた格好で映し出された。首から鎖骨のあたり、特に二の腕がとても痩せていて、1グラムの脂肪もついていないように見えた。それに比べると自分はいたって普通の中肉中背なんだろうなと思った。特に太っているわけではないし、私はこのくらいでいいんだと自分に言い聞かせながらも、もやもやとした気持ちが残る。その温泉シーンはここで撮影されたものらしい。宣伝の意味で流されているようだ。


私たちも疲れたからお風呂に入って寝よう、と誰かが言った。私もそれに同意した。すると先輩が「ここの浴場は怪しいらしい。浴場としてもエステとしても営業許可を受けてないらしい」と言った。「じゃ何で許可を得たんでしょう?」と私が尋ねると、「倉庫」と先輩は言った。「ファクトチェックは大事だな」…聞いたことのある会話が繰り返された。デジャヴュ? 私はそれによって自分が報道局の一員になっていて、一緒に旅行に来ているのだということにあらためて気づいた。


部屋に戻り、お風呂に行く支度をする。下着やタオル、風呂あがりに着る物を探すけれど、薄地で透け透けのワンピースしかない。なんでこんなのしかないんだ?と訝りつつも、一番透けの少ないフォレストグリーンに小花柄のワンビースを手に取った。


浴場に降りていくと、扇状に広がった空間に、3つのガラス張りの部屋が現れた。それぞれに、整体やエステなどに使われる施術台と、何の目的に利用するのかわからない不思議な機械が置かれている。歯科医にあったら不自然に感じないような、そんな機械。照明が異様に明るくて、無影灯に照らされる手術台のようにも見えた。

どこにもお風呂がない。どうしようかと考えていると、隣にいた誰かが言った。どうせここまで来たのだから、エステでも何でも受けて帰ろうよ。私たちはガラス張りの部屋に入った。スタッフが近づいてきた。宝塚の男役のような風貌の背の高い女性。言動もどこか芝居がかったいる。丁寧な対応にもかかわらず、人を苛つかせる何かがあった。
脳裏にもう一度先輩のセリフが響いた。ファクトチェックは大事だな。

 

戦闘機に狙われる

寒空の下を家へと急ぐ。ねずみ色の曇天を、落葉樹の細枝が必死に支えているようだ。いつもの道を歩いているのに見慣れない広場に出た。広場というより、取り残されて何の使い道もない徒広い空間に、誰からも相手にされない雑草たちが行き場をなくして集っているようだった。
閑散とした広場の奥から歓声が聞こえ、何事だろうと近寄ってみる。何十人かの人々が空を見上げているのが目に入った。すると突然、空軍の戦闘機のような飛行物体が彼らを目掛けて急降下して、地面すれすれでまた上空へと翻っていった。こんなところで航空ショー? ありえない、と思いながらも横目でその様子を見ながら歩いた。乾いた冬の風が頬を刺す。


彼らは一様に、淡い緑色のクッションを胸に抱いている。シルクのようなつるつるした生地に覆われた、やや小さめの四角いクッション。どうやらそれを持って立っていることで、飛行物体に狙われるらしい。そして彼らは、狙われることを望んでいる。それが名誉なことらしい。
気づくと、私も同じようなクッションを持っていた。薄萌葱色の色合いが美しいものだった。飛行物体が私を目掛けて急降下してきた。やはりぶつかる寸前で空へと昇っていった。


見物人のうち数人が私に寄ってきて、話しかけてきた。狙われた私が羨ましいらしい。関西弁でしつこく話してくる男性が一人いて、お笑い芸人のHによく似ている。彼の持っているクッションは、私のものより緑色が濃くて、素材も麻のようにざらついていて、細かい色むらがあった。もしかして彼はクッションを交換したいのだろうか? と思ったけれど具体的に依頼されたわけでもないので、私は黙っていた。


芸人Hは誰かと口論を始めた。相手は、Hの相方のMによく似ている。やがて口論は、ウェブ上でのけなし合いに発展した。沢山けなすこと、見事に論破して相手をねじ伏せることで、それが勲章のようになり飛行物体に狙われやすくなるらしい。そのコンビは互いにそっぽを向きながら雑草の間に立ち尽くし、夢中でスマホを握りしめていた。

 

ゴム紐のように伸縮する世界

リビングに居ると、突然地震が起きた。下から突き上げるタイプの揺れで、発射されたロケットのような勢いでソファが宙に浮いた。2メートルほど垂直に浮き上がり、ドスンと落ちた。落ちた位置は今までの位置と僅かな誤差しかなく、ほぼ元通りのようになった。宙に浮いたのは一人掛けのソファで、私の座っていた大きな方はせいぜい10センチくらいの浮きに感じられた。


見回すと、他の家具も激しく浮いたものやそうでもないもの、まるで自由すぎて困る幼稚園児のように、節度も統一感もなくバラバラだった。それらはやはり揺れが収まると、数センチの誤差の中に収まり、元通りになった。世界全体が伸縮性のある素材でできていて、ゴム紐を引っ張って元に戻したように、空間全体をびよーんと引き伸ばされ、また元に戻されたように感じられた。


他に被害はないか確認しようと思い立つ。家中の家具はやはりほんの僅かに曲がっているだけで倒れたり壊れたりするものはなかった。壁にかかった絵だけがそれに比べて不自然に大きく、30°ほどの角度に曲がっていた。
暗い廊下を歩いて洗面所の扉を開けると、暗闇の中に、ここにはいるはずのない伯父が立っていた。私はびっくりして肝を冷やした。ここで何をしてたんですか、と尋ねるも要領を得ない返答が返ってきた。
玄関から人の声がする。近所のお宅の高齢男性が勝手にドアを開けて入ってこようとしている。こちらも要領を得ない返事が返ってきた。ご近所さんはズカズカと入り込んできて、何やら伯父と話している。その内容は聞こえていたのになぜか外国語のようでよく理解出来なかった。
面識もないはずの二人は、肩を組むようにしてそのまま玄関から出ていった。私はほっと胸をなでおろしていた。


二階に上がってみると、そこは友人Hの家だった。奥の部屋にベッドがあり、その上に沢山のぬいぐるみが並べられていた。いくつかは倒れたり転がったりしている。そのベッドは友人の妹さんのものらしい。
何十体とあるなかに、私がかつて手作りしたウサギとイヌのぬいぐるみが混じっていた。とても大事にしていたそれらが、なぜ妹さんのものになっているのか、愕然とした。
似ているけれど別のものかもしれない、と思った私は、ぬいぐるみのホコリを払うふりをしてそれとなく手に取り、よく観察した。どこからどう見てもそれは確かに私のぬいぐるみだ。これはなんとしても取り返さなければと思う。しかし事情を話しても理解してもらえるわけがない。あなたのぬいぐるみの中に私のものが混じっていたから返してください、と言っても首を傾げられるだけだろう。私のぬいぐるみだという証拠もないのだし、これは元々自分のものだと言い張られたら返す言葉がないのは目に見えていた。


私はそっとその二つを手に取り、隠して持ち出すことに決めた。平然を装ったが、かなりおどおどしていたのだろう。妹さんの方から声をかけてきた。それ、持ってっていいよ。
その時の私は、心臓が口から飛び出るという通俗的な表現そのままだった。しどろもどろに言い訳をする。妹さんはそれを聞いているのかいないのか、関心もない様子だった。
慌てて階段を降りようとする時、友人Hとすれ違う。私は自分のものを持って帰るだけなのに、盗みを働いたように挙動不審な、そんな自分がとても嫌だった。

 

軽薄な男の慈愛に満ちた微笑み

軽薄そうな男性に出会った。私の部屋に上がり込んで、ベッドのそばで膝を抱えるように座り込んでいる。
軽薄な仮面、その他諸々の仮面を、器用に付け替えてその場に適した顔をつくる。その隙間の一瞬に、素顔を敢えて覗かせることも怠らない。正確には素顔らしきものを、わざと覗かせる。


流れるように上手に言葉を紡ぎ、こちらの心の壁を易々と解くことをやってのける。他に好きな男がいるんだろ。全て見透かされている。こんな素敵な人を泣かせるなんてとんでもない奴だ、そいつの代わりをしてあげてもいいよ、と明るく軽く言い放った。胸が痛くてたまらない。
唇に触れると、微かに違和感があった。でもそんな違和感はどうでもいいくだらないことに思えた。


この人は私を通り過ぎていくだけ。わかっているから傷つくこともない。心をもう少しだけ開けばそれで済む。
口もとにへらへらした笑みを浮かべて、私の思いを値踏みするように彼は見ていた。その眼差しは慈愛に満ちていた。